本能寺の変の当日、次男・織田信雄はどこで何をしていた?光秀を討てなかった理由
天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺で織田信長が横死を遂げ、嫡男の織田信忠もまた妙覚寺から二条新御所へ移り、明智勢と戦った末に自害して果てました。
信長三男の織田信孝は四国征伐の出陣準備で摂津にいましたが、ところで信長次男の織田信雄(のぶかつ)はどこで何をしていたのでしょうか。
劇中では今一つ存在感の薄い信雄ですが、本能寺の変が起きた当日の行動を紹介したいと思います。
弔い合戦の兵を起こすも……
京都で本能寺の変が起きた当日、織田信雄は本拠地の伊勢松ヶ島城(三重県松阪市)にいました。特に大きな出陣予定はなかったのでしょうか。
天正7年(1579年)の第一次天正伊賀の乱で大敗し、信長から勘当されかけたことがある信雄には、この時、特に大きな遠征の役目は与えられていなかったようです。
ともあれ変から3日後の6月5日に報せを受けた信雄は、ただちに兵を起こして鈴鹿峠から近江甲賀郡土山(滋賀県甲賀市)まで進軍しました。
しかし、かねてから反抗的であった伊賀の国衆が一揆を起こします。信長さえ死ねば、信雄など恐るるに足りぬと思っていたのかもしれません。
下手をすれば信雄の背後を突いたり、あるいはガラ空きとなった伊勢へ攻め込みかねない状況です。
これ以上の進軍は危険と判断した信雄は、近くの日野城(滋賀県日野町)へ逃げ込んでいた信長の妾子らを保護して兵を引き揚げました。
報せを受けてすぐに兵を起こしていることから、信雄としてはただちに京へ攻め上り、明智光秀に弔い合戦を挑みたかったところでしょう。
しかし、当時は伊勢衆の多くが信孝の四国征伐軍へ動員されており、実のところそんな余裕はなかったようです。手元に十分な兵力が残されていなかったことが、ここで大きく響いてしまいました。
それでも兵を起こして信長の妾子らを救出したことから、その功績は周囲の評価ほど小さくなかったと言えるでしょう。
ともあれ伊勢松ヶ島城へ帰還した信雄は、家老の滝川雄利(たきがわ かつとし)に命じて伊賀の一揆勢を鎮圧させます。
やがて6月13日、中国大返しを果たした羽柴秀吉によって明智光秀は討ち取られ(山崎の合戦)、信雄は仇討ちを果たすことができませんでした。
炎上する安土城
その後、6月14日から15日ごろに安土城(滋賀県近江八幡市)が炎上し、信雄が火を放ったという説が伝わっています。
『太閤記』などによると明智秀満(ひでみつ。光秀重臣)が敗走前に火を放ったと言われていますが、6月15日時点で秀満は坂本城(滋賀県大津市)にいたため、これは冤罪=創作と考えるのが自然でしょう。
しかしなぜ信雄は、父が築き上げた安土城をわざわざ焼いたのか、その理由がわかりません。
宣教師ルイス・フロイスが執筆した『日本史(フロイス日本史)』には、こんな記述がありました。
……デウスは信長があれ程自慢にしていた建物の思い出を残さぬ為、敵が許した(明智勢が存続を許した)その豪華な建物が其の儘建っている事を赦し給わず、そのより明らかな御智慧により、付近に居た信長の子、御本所(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので、何ら理由も無く、彼に邸と城を焼払う様命ずる事を嘉し(よみし)給うた。上部(安土城の天守閣と本丸)が全て炎に包まれると彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった……
要するに「神デウスが信長の高慢を象徴する安土城が存続することを許さず、たまたま近くにいたバカな信雄に放火させた」。つまり「安土炎上は神の思し召し」と言っているようです。
恐らくフロイスたちにとって、絢爛豪華な安土城はバベルの塔に等しく、神の怒りによって焼失すべき存在だったのでしょう。
しかしフロイスはこの現場を見たわけではなく、さらに信雄は伊賀一揆の鎮圧で手一杯だったため、安土城まで遠征する余裕などなかったはずです。
フロイスら宣教師は信雄を「ふつうより知恵が劣っていた」と酷評する一方、キリスト教に好意的だった信孝を高く評価していました。
こうした両者への評価の違いが、安土城炎上をめぐる記述にも影響した可能性があります。
実際に安土城が焼失した原因については、信雄による放火説のほか、明智勢や近隣の一揆勢、混乱に乗じた略奪者による放火説などがあり、現在も断定されていません。
本能寺の変における織田信雄まとめ
・弔い合戦の兵を起こすも、伊賀一揆を警戒して撤退
・しかし信長の妾子らを保護することには成功
・伊賀一揆の鎮圧に手間取り、弔い合戦に参加できず
・安土城を焼いた説は冤罪の可能性が高い
今回は本能寺の変に際して織田信雄がとった行動について紹介してきました。
兄・信忠や弟・信孝に比べて暗愚に描かれがちな信雄ですが、限られた状況下において最善を尽くしたであろうことがわかります。
また安土城炎上の犯人とする記録も残されていますが、その真偽はいまだ明らかになっていません。
もし信長が信雄に大軍を預けておいたら、どうなっていたでしょうか。弔い合戦に逸早く駆けつけられたかもしれませんし、そもそも光秀が謀叛をためらったかもしれません。
果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、これから信雄がどんな活躍をするのか、楽しみに見守りましょう!
※参考文献:
・熱田公『日本の歴史11 天下一統』集英社、1992年4月
・谷口克広ら監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年1月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部