「不登校から医学部へ」進んだ元野球少年 母親は「不登校になると全部なくなると思った」
中2で不登校になり、起立性調節障害の診断を受け、昼夜逆転。学校の成績はオール1に……。もしわが子がそんな状況に陥ったら、親として何を思うでしょうか、何ができるでしょうか。心配して声をかけてくれるママ友や親戚の声すら素直に受け取ることができなくなり、広い宇宙にたった一人取り残されたような絶望感を味わったと言う、札幌在住の母親・倉孝子(くら・ゆきこ)さんに、そのときのお子さんの様子、ご自身の心情を詳しく聞きました。
突然「ラッパーになる!」と言い出して大会に出場したり、フリースクールに通ったり、定時制高校夜間部に通ったり……。壮大な紆余曲折を経験しながら、最終的に幼いころに憧れた医学の道を歩むことに決めた元野球少年と、そんな彼を支えた母親の実話を紹介します(第1回)。
90冊以上の著作を持つ教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏が迫ります。
小3の入塾テストは「不合格」だった
おおたとしまささん(以下おおた):中学2年で起立性調節障害になったということですが、それまでは、どんなお子さんだったんでしょう。
倉孝子さん(以下孝子):息子の俊徳(としのり)は、すごく元気なタイプの子でした。小学校のときから野球をやっていて、中学でも野球部。だから、学校に行き渋るなんてことも、それまで全くなかったんです。
私はもともと、子どもに勉強させたいというタイプの親ではありませんでした。野山で元気に遊んでほしい、とずっと思っていて。ところが小学校3年生のとき、息子が急に野口英世の本を何冊も読んで、「医者になりたい」と言い出したんです。
おおた:面白いですね。子どもが理由もなく「これだ」と感じたものが、じつはその子の力を発揮できる方向を指している、ということって、よくあるんです。この方向なら頑張れる、って。
孝子:そういう人生もあるのかもしれないな、と思って、全国統一小学生テストを受けさせてみたら、成績が非常に悪かった。これはまずいと思って近所の塾に入れようとしたら、あまりにできなくて、入塾を断られました。
「なぜこの塾に入ろうと思ったんですか」と聞かれて、「将来、子どもが医者になりたいと言っているので、今から塾かと思いまして」と話したら、「医者になるには、地元の中学でトップになって、その地域の進学校で上位数%に入るレベルでないと。お宅のお子さんは……」と説教される始末で。ショックを受けつつ、とりあえず基礎的なことは勉強させたほうがいいと思って、もっとゆるい塾に入れました。
それでも中学受験ができるようなレベルではなくて、学校の成績にプラスアルファする程度。中学に入ってからも、「中の上」か「上の下」といった感じの子でした。
「治るのに3年」の起立性調節障害に衝撃
孝子:体調がおかしくなり始めたのは、中学2年生のころです。ちょうどコロナ禍で、休校になっていた時期でした。朝寝坊が増えてきていたことは事実なんですけど、私は全然気づかずにいました。
「クラクラする」と言うので、近所の内科に行くと、ただの風邪のような診断をされて、2〜3日休むと治る。それを繰り返していたんです。思春期だからそういうこともあるのかな、と軽く考えていました。本人も頑張り屋さんなので、頑張って学校に行っていたんです。
あとから振り返ると、3ヵ月くらいはそういう状態だったんだと思います。でも私の実感としては、ある日急に倒れて寝込んだという印象なんです。
中2の秋、たしか土日だったと思いますが、部活の選抜テストがある日に、私が無理やり起こして行かせたんです。そうしたら帰ってきて、「すごく疲れたから一回寝る」と言って、そこから2〜3日ずっと寝込むような状態になってしまって。
これはおかしい、となって、今度は小児科に連れて行きました。あとから知ったんですが、起立性調節障害は小児科の領域なんですね。だから小児科に行ったことで、病名がはっきりつきました。
診断が下りたとき、私にとって衝撃だったのは、起立性調節障害という病名そのものよりも、先生に「治るのに3年くらいかかる」と言われたことでした。中学・高校の3年間は、人生の方向性が決まる一番大事な時期だと、当時の私は思っていたんです。なのに先生は、「長い人生の、たった3年だから」というような言い方をされて。全く受け入れられませんでした。
不登校になるとは1ミリも思わなかった
おおた:別にそういう病気にならなくても、多くの親が同じように思い込んでいるんだと思います。受験期だから、ここで人生が決まるんだと思い込んでいる。
孝子:診断を受けて、自分でもそれを受け止めきれないまま、とりあえず学校には報告しますよね。先生の第一声は、「えっ、俊徳が」でした。「俊徳って、そういうタイプじゃないですよね」って。
先生のなかでは、ちょっとおとなしめで線の細い子がなる病気、みたいなイメージだったみたいで。「起立性調節障害でも、夕方からなら来られるだろうし、なんだったら部活だけのために学校に来てもいいですよ」というふうに言われました。
そのとき先生に「学校との関係が途切れると、不登校になりますから」と言われたのが、結構大きかったんです。自分の子どもが不登校になるなんて、1ミリも思っていなかったので。不登校があり得るんだ、というのがすごくびっくりで。
なんとかして、やっぱり学校には行かせなきゃいけないな、と思いました。そこから2〜3ヵ月は現実を受け入れられず、ぐるぐる考えていました。
俊徳さんと弟で。 写真提供:倉孝子さん
孝子:だけど少しずつ私の考えが変わるために大きかったのは、やっぱり診断名がしっかりついていたことです。怠けているんじゃなくて病気だしな、と思えた。
それから、夫の存在も大きかったです。夫はわりと寛容で、「ゆっくり成長すればいいよ」「俊徳は大丈夫だから、今ちょっと成長しなくても、ゆっくりやればいいよ」と言ってくれて。普段はわりと夫婦喧嘩も多いんですけど、あのときは本当に寛容だったなと思います。
それでも、頑張って学校に行くと、その日帰ってきたらまたパタンと寝込んでしまう。1週間くらい寝込んでしまうこともあって。学校に行くということが、この子にとってはすごく負荷がかかるんだな、というのが否応なしにわかってきました。
健やかに成長するために学校に行くはずなのに、行くことで健やかに成長できないのなら、今は無理に学校に行かなくてもいいんだな、と。そう思えるようになったんです。だけどそれはあくまでも「仕方ないな」という諦(あきら)めの気持ちでした。
本人は、私以上に自分の状態を受け入れられませんでした。自分は絶対に元気になって行けるはずだ、と思っていて。途中から行く、夕方から行くのを何度も試したんですけど、「行くんだったら朝から行く。朝から行けば行けるはずだ」って。自分はそんなやつじゃない、という気持ちがあったんですね。でも実際は全然行けない。ダメージが大きくて行けない。
「本当だったら行けるはずの自分」と「実際には行けない自分」がどんどん乖離(かいり)していって、今の自分はダメな自分だ、というふうになってしまって。そこがすごく辛かったみたいです。
おおた:「諦め」という言葉がありました。「無理に学校に行かなくてもいい」という気持ちになったとき、同時に孝子さんは何を諦めたと思っていたのでしょうか。
孝子:「こういう高校生になりたい」という本人の思いもあったし、私も「きっとこの子はこういう高校生活を送るんだろうな」という未来像を持っていた。それを諦める、という感じでした。不登校になると、それが全部なくなってしまうと、当時は思っていて。
おおた:理想の人になってほしいなんて思っていなくても、どこかに「こういうものだよね」という“普通”があった。
孝子:そうです。その“普通”を諦めなきゃいけないんだな、と思いました。
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次(第2回)は、子どもの成績が「オール1」に、強い孤独感におそわれた母は、子ども同伴で夜遊びに繰り出すように!?
取材・文/おおたとしまさ(教育ジャーナリスト)
●おおたとしまさPROFILE
教育ジャーナリスト。1973年東京生まれ。リクルートから独立後、教育に関してさまざまな観点から取材を行い、著書は90冊以上。2026年5月に『フリースクールという選択』(講談社+α文庫)を上梓。どこの組織にも属さない在野の視点で現代の教育への考察・提言を続けている。メディアへの出演や講演も多数。
“フリースクール探し”で最初に読む本、登場! 『フリースクールという選択』(著:おおたとしまさ/講談社+α新書)