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宇多丸『哀れなるものたち』を語る!(後編)

TBSラジオ

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』のコーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞して生放送で評論します。

今週評論した映画は、『哀れなるものたち』(2024年1月26日公開)です。


ここからはその書き起こし【後編】をお送りします。

あえて対照的なキャリアの二人を組ませたプロダクションデザイン

たとえばですね、美術の話をしましょうか。もう非常に美術……「美術の映画」ですもんね、やっぱりね。美術というのはその背景とかね、舞台とかセットとかのことですけども。

ベテランの……これ、美術(監督)が、二人いるんですよ。すごいベテランのジェームズ・プライスさんという方と、もう一方の方は、長編映画はこれが初!っていうショーナ・ヒースさんという。キャリアがもう全然異なる、プロダクションデザイナーの二人。この二人にあえて、コンビを組ませてやってるわけです。

この起用法自体が、ヨルゴス・ランティモスのワザのうち、っていう感じがするんですよね。両極のキャリアを持つ二人を……しかも二人ともなんか、お互いアプローチは違うけど、最後に中心で出会うようにアプローチしよう、みたいなことを言って。相談しながら……結構、コロナ禍でも撮られているんで、Zoomで相談しながらやった、とか言ってるんですよね。面白いですよね。

とにかくこの二人による、まさに圧巻の美術ですね。これは(アメリカ/アカデミー賞の)美術賞、いくんじゃないの? これはね。

どこまで映るかわからないから、「全部ちゃんと作る」しかない!

パンフによればですね、「全てを歩き回るのに30分かかる」という、とんでもない規模のセットたち、っていうことですよね。特にリスボンの街なんかは、結構大がかりに作り込んでるらしいですけれども。

しかもですね、さっき言ったようにヨルゴス・ランティモス、広角レンズ、魚眼レンズ……要するに世界をギュイーンと圧縮して、ねじ曲がった感じでひとつの画面に収まるような、魚眼レンズとか広角レンズを多用するので。セットも、要するに映り込む可能性が……「ここしか撮らないから、ここだけ作ればいいじゃん」ってやると、結構映っちゃうので。わりと全部、360度作り込んでおかないと、全体を考慮して作り込んでおかなきゃいけない、みたいなことです。

衣装もしかりで。衣装の方(ホリー・ワディントン)が、オープニングの青いドレス、「背中から撮るって聞いてなかったから……でも、背中も作り込んでおいてよかったー!(笑)」みたいなことをインタビューで言ってたりしてるんでね。はい。

バクスター家のディテールひとつ取ってみても……

たとえばね、オープニングクレジットのバックにもなってますけど、ベラの寝室の壁一面の、あの刺繍が施されたキルティングみたいなの。あれ一個取ったってさ、オープニングで「うわっ、何これ? すげえかわいいんだけど」って……で、よく映画を観ていくと、「ああ、ベラの寝室の壁なんだ」と(わかってくる)。で、そのキルティングの刺繍がされた壁が一面を覆っている寝室、っていうのはつまり、保護者たるそのゴドウィン・バクスターの、「彼女を世界から守りたい」という、ちょっと過剰な思いの表れ……全部がふわふわしていて、当たっても怪我しないようになっている、みたいな、そういう感じも表している。でも、一個一個に書かれてる刺繍は、彼女のこれからの世界への冒険を示唆しているようでもある、みたいな感じがして。もうこの一点……つまりこんな感じで、全ての細部に、読み取り甲斐のあるディテールが、詰め込まれすぎている!という感じなんですよね。

あるいはですね、そのバクスターの家。いろんな手術室、実験室みたいなところもあれば、食卓もあれば、もう全てのところがね……いっぱい皿が壁に飾られた、あの食卓なんかも面白いですけども。あのね、天井に、耳のオブジェ的な彫刻があるんですね。で、これはね、つまりこの家全体が「解剖学的」な細部に満ちているわけですね。いろんなところに、その解剖学っていうのを連想させるものがいっぱいあるんだけど。その多くは、スクリーンの片隅を通り過ぎるだけで、ほとんどはやっぱりよく見えないんですよ。だからその、世界ごと作り上げる、っていうことなんで、(いちいち細部を)「見せる」というよりは。なので、エンドロールでようやく……あの額縁のようなクレジットの斬新さもありますよね。それもさることながら、そういう美術のディテール、さっき言った、耳が二つ重なった……あれは天井にあるんですけども、耳が二つ重なったその彫刻みたいなやつも、ようやくエンドロールでポンポンポンって(映る)。すごい短いんだけど、見せられてくる。

それと、あの額縁みたいな斬新なクレジットが相まって、もうその満席の客席で、一人もエンドロールで席を立たなかったですね、俺が観ていた時は。やっぱりね、観ちゃいますよね。だから観ていると「ああ、あそこはここを……ああ、ここのシーンはこんなになっていたんだ!」とか「ああ、こんな壁だったんだ」とか「こんな模様だったんだ」みたいなのが、あそこ(エンドクレジット)で見えるようになっていてですね。そこまで含めて情報量たっぷり!ってことですね。

ホリー・ワディントンによる衣装の仕掛け

これは今、美術の話ですけど、衣装に関しても同様で。いろいろ話ているとキリがないんですけど、たとえば、性を含めた「外の世界」に目覚めたベラが、はじめて一人で歩くリスボン。まあ架空の、「作品内リスボン」に出ていく時に、彼女の服装と、あとセットと、あと空とかが、印象的な「黄色と青」のコンビネーションになっているわけですね。

あとその、彼女の着こなし。結構、決まりごとを崩しまくり!っていうか。たとえば、上着っぽいあれを着ているんだけど、下がもう急に下着っぽくなっていたりとか。で、もう次の場面ではそれも脱いじゃっていたりとか。決まりごとを外しまくりで、それがゆえにかっこいい!みたいなね、自由さを表していたりとか。

特に、ショートパンツルックが結構印象的ですよね。あれはさすがにヴィクトリア朝時代、あの時代の女性の着るものとしては、まあ型破り、掟破りもいいところでしょうし、ゆえに、かっこいい。あとはこれ、パンフ読んで「ああ、そうなんだ」と思ったのは、長い髪を下ろしたまんまで表に出たりするのも、当時として結構タブーっていうか、掟破りらしいですね。

あと、先ほどのメールにもあった通り、肩のパフスリーブ、非常に印象的で。全体にそのパフスリーブの服が多かったですね。あの、肩がフワッと膨らんでいる、いう。あれは、序盤においては、男たちが彼女たちに求めるある種「幼児的なかわいさ」の表現にも見えるけど。同時に、その肩が張ってるわけですから、彼女自身の意思とか強さとか、そういうものも同時に体現しているもの。同じパフスリーブが両面に見えるようになっている、というか。その場面とか彼女の成長によって、どんどん違う風な見え方をしていく、みたいな。そういう衣装使いもしてるんじゃないかな、という風に思いました。

先ほど「黄色」がね、リスボンでは印象的だと言いましたけども、黄色は実は他の場面の、たとえばパリの街に降り立った時に着ている……最後の方でも着てますね、ゴム製のコートですね。つまりゴム製っていうことは、もう時代考証はちゃんとやる気なし!っていうか、そういうことなんですけど。そのゴム製のコートなど、僕の解釈では、主に彼女があえて危険な世界に乗り出すとか、ちょっと一線を越えて何かをする、っていう時に、黄色を着るな、っていう感じがしましたけどね。

章ごとの幻想的ショット、全部額装して飾りたい!

色で言えば、もちろん序盤は白黒。で、途中のあるポイントで、カラーになるわけです。急にカラーになるんですよね。徐々にとかじゃなくて、ドンッ!てカラーになる、そのタイミング。あの変化がやっぱりそのすごく、「わあ、色がついた!」っていう感じもすると同時に……ちょっと笑っちゃうじゃないですか。要は「そんなにいいか!」みたいな(笑)。パーッと色がつく、みたいなね。『カラー・オブ・ハート』っていうのでね、性への目覚めイコール(白黒だった画面に)色がつく、っていうのをやってましたけど。(それともまた違った)本作の、なんていうか(色がつく)境目が急にドンッ!ってくる感じが、笑っちゃうんですよね。あれがその、ヨルゴス・ランティモス流のユーモアかと思いますが。

あと、合間合間の章ごとに挟まれる、挿絵的な白黒の幻想的なショット……あれだってさ、もう2秒ぐらいしか映らないのにさ。このワンショットだけで、どんだけ凝ってんの?みたいな。もう一個一個ね、額装して飾りたいような、すごい凝り方をしてますけども。

そんな感じで、美術、衣裳、撮影。加えて所々、そのランティモス十八番の魚眼使いとか、とにかく映像的な、映像から得られる情報だけでも、正直一度だけではちょっと処理しきれないぐらいのものが入ってるわけですね。もちろん、その解釈、みたいなのもいいんだけど……そこに世界が丸ごと、仮想的なもので作られていて、それを感じるっていうことが、やっぱり「映画」なんで。やっぱりその凄さっていうのは、理屈じゃなく、伝わると思うんですね。観てる人にね(※宇多丸補足:贅沢なセットや衣装を駆使した作品世界の全体的な作り込み、という意味では、フェリーニ的なものも強く感じる一作だったかもしれません)。

大抜擢、ジャースキン・フェンドリックスによる「静かに歪んだ」音楽

さらにさらに、音楽ですね。これ、ジャースキン・フェンドリックスさんという方で。この方、2020年にアルバム『Winterreise』っていうのをリリースしているくらいで、ほとんど世界的に、そこまで知られてる人じゃないです、正直。言ってみれば実験的ポップアーティスト、って感じですかね。で、ヨルゴス・ランティモスがその『Winterreise』というアルバムを……これ、サブスクとかにも入っているんで聴けますけども。それを聴いて大抜擢した、ということみたいなんですけど。たしかにこれ、アルバム、そっちも聴いたんだけど、やっぱりね、たしかにたとえば、結構打ち込みとかも入っているような、パッと聴きはポップチューン風に始まるんだけど、聴いていくうちに、全体が静かに歪んだような音像、みたいな感じに気づいてくるっていうか。なるほどヨルゴス・ランティモスの世界っぽい音楽だな、っていう感じがすごくする作品でございます。

で、今回ね、彼は大抜擢を受けてですね、やっぱり……オフィシャルインタビューっていうのがあって、それによればですね、この作品の本質をいろいろ解釈しようとして。だからその、さっき言った解剖学的なディテールを、美術とかがやってるじゃないですか。音楽でもそれをやろう、っていうんで、なんか古い医学書を読んでみて、音楽に応用できないかを考えたりした、っていうことなんですけど。

そこでたとえばどういうことをやってるかっていうと、その「有機的なものと人工的なものの境目」っていう……ある意味そのね、人造人間でもあるわけですから、ベラは。有機的なものと人工的なものの境目を(音楽的に)表現するために、たとえばパイプオルガンとかアコーディオンみたいな、要するに直接息を吹きかけるんじゃなくて、機械じかけでその空気を動かして鳴らすような、機械的管楽器の音を、あえてその、人が吹いてる楽器で生じる──本人は「曲げる」って表現をしているんだけども──本来であればまっすぐの音しか出ない機械的管楽器を、あえて「曲げる」ように後から加工することで、奇妙で不気味な感じを出しました、って言ってるんですよね。これ、映画を観ている人はわかりますよね? 「ああ、あの感じか」って、ちょっとわかると思うんですけど。はい。

で、さっきも言ったように、撮影前には音楽を完成させて、俳優たちはそれを流しながら演技をした、ってことなんですね。なので、たとえば序盤、ベラが食卓に座って……もうすごい最初の方です。「タンンタンタンターン♪」っていうあのメロディーに合わせて、「バンバンバンバーン!」って(机を)叩いているじゃないですか。俺、観ていて、「これ、どうやってシンクロしているんだろう?」って思ったら、単純に音楽を流しながら撮影をしてたから、っていうことみたいですね。あとはダンスシーンとかね。後ほども言いますけれども、最高のダンスシーン!とかね。そういうのもやっぱりもう、音楽が先にありきで作ってる、ってことですね。

このようにですね、原作小説の多層性というのを、まさに純映画的な要素に置き換えたような作り。ご覧になった方はおわかりの通り、本当にそれぞれの要素が、ちょっと考えられないほど高いレベルで成功している、という風に思います……映画技術というか、映画的表現として。ということは間違いないと思いますね。

ベラに圧倒的実在感をもたらしたエマ・ストーンの名演技!

そして、何より重要なのは……あまりにも、観ればこれは明白なことなので、最後まであえて言わなかったですけども。映画化っていう時に、小説と何が一番違うかって言ったら、それを生身の人が演じている、ってことですね。やはり、主人公ベラを、エマ・ストーンが、その成長プロセスごとに、圧倒的な説得力とキュートさで、演技というより「体現」しきっている。ベラっていう人が、本当にここにいるんだな!って感じられる。これこそ、まさに映画化の最大のポイントですよね。文章ではなく、映画化である意味、ということですよね。

たとえば「中身は赤子」の時の、あらゆるものに目を輝かせる、あの好奇心。これ、内面がそうなんだろうなって、やっぱり見えるし。外の世界の存在を知り、性の喜びに触れ、過剰な保護から脱することを望むようになり……言っちゃえば「思春期」ですね。思春期的な苛立ちと高揚感、みたいなのを感じているあのくだりであるとか。

あとはやっぱり、さっき言ったように、たとえばあの、体の内側から湧き出てしまう、「ダンス」への衝動。ダンスとは本来こうであった、こう生まれたのであろう、というような、ダンスが誕生する瞬間を見るような、あのダンス。あの楽しさ、あの高揚感!っていうのもちろんそうだし。

それをなんとか西洋上流社会的ペアダンスに落とし込もうとする、マーク・ラファロ演じるダンカンの、苦し紛れのステップ。あれももう、めちゃくちゃおかしいですよね(笑)。だからマーク・ラファロはマーク・ラファロで、ダンス、うめえな!みたいな。無理やり、こうやって……それこそ(ベラが)ワイニーダンス風に腰を動かしてガンガン行こうとするのを、グイッとこっちに引き寄せて、なんとかペアダンスに持っていく、みたいな(笑)、あの、格闘にも近いようなやり取りも、めちゃくちゃおかしいダンスシーン。名シーンだと思いますし。

さらには、さっき言ったような、たとえば世界の残酷さを知ってしまった哀しみ。そこから、さらに強まる成長への意志。ちゃんと世界にコミットする人間になろう、という意志みたいなもの。その全ての段階のベラが、本当に生き生きと愛おしく、かっこよく描かれている、というあたりじゃないでしょうかね。

ちなみに僕の奥さんがもう、めちゃめちゃこのエマ・ストーンの演技が好きだ!って言ってるのは、あのパリで売春をするというところで、いろんな提案をするじゃないですか。「女性から選ぶようにした方が安心して遊べるんじゃないの?」とか、いろんなことを言うんだけど。

そんな中で、たぶん彼女なりの、つまりお客と人間的な交流を持つ方が良くない?っていう、そういう彼女なりの試みのひとつとして、あのジョークを……「あなたは子供の時の話をして。私はジョークを言う」っていうところがあるじゃないですか。そこで、この作品の中でも結構珍しく、そのベラが、本当に心の底から嬉しそうに……つまりたぶん、「通じ合った」ってことが嬉しくて。こんな場でね。こんな場で……なんだけど、通じ合ったことがやっぱりギリ嬉しくて、すごく心の底から、笑っている。この映画の全体でも、結構稀有な笑顔の場面なんだけど。僕の奥さんはあの笑顔を見るだけで泣きたくなる、みたいなことを言っていましたね。たしかに、たしかに。そんなところも含めて……。

ちょっとだけ男たちにも可能性を残した、映画版のアレンジ

それで今、その売春宿の話もしましたけど、同時にこれはもちろんですね、さっき言ったように、男性は非常に、身につまされる話。つまり、女性が自分たちの勝手な思惑とか勝手なイメージを超えて成長・行動することを、どうしてもよしとしない、受け入れられない、男性中心主義。そうとは意識してなくてもマッチョイズム、みたいなものですよね。その滑稽さ、そのハリボテぶり、といったあたりでしょうか。

劇中に登場する男たちの言動や考え方、自分にもどこかしら、思い当たるところが全くない、と言い切れる男性はどのぐらいいるのかしら……と私は思わざるをえない。少なくとも僕は、全員に……これ、本当に言うのも嫌ですけど、全員に少しずつ当てはまるところ、やっぱりあるな、と思いながら見ていたので。もちろん笑いながらも、まあ赤面、といったところじゃないですかね。はい。

あとですね、さっきも触れた……僕が非常に印象的だったのは、ハリー・アストレーとの、世界認識に関する議論ですね。「世界というのは残酷なところだ」と。それに対して(ベラは)、理想主義みたいなものを話すわけですけども。その絶望的な現実を前に……要するに、かように現実というのは絶望的だから、理想なんかは打ち砕かれる、だから現実主義──現実主義という名の「冷笑主義」ですね──ニヒリズムに徹するしかないんだよ、っていうことを言うハリーに対して、ベラはね、ある回答をする。僕はすごく優しい……鋭くて厳しいけど、優しい返しだと思ったんですけど。これ、実は原作小説も同じことをベラが、「思う」んですね。「思う」だけなんです。で、もっとハリーのことは、突き放して終わるんですね。

ところが映画版では、ハリーはそれを聞いて……「ああ、あなたはそういう人なんだ。あなたがわかった。あなたはこういうことで……」って。これ、全ての冷笑主義者は観た方がいい。「あなたは言っちゃえば、ちょっといい人なんだよね。ちょっといい人だから、そういう態度を取っているのよね。弱いから、そういう態度を取っているんだよね」ってことを言うんだけど。ハリーがそこで、これは小説とは違う場面で、「そうかも」って。で、ベラはそれに対して「ね?」っていう……もう完全に、こっちの方が大人になっているわけですね。「あなたはその現実を受け入れられないだけなのよね。優しい子なのよね。弱いけど」みたいな感じで、優しくキスをする、という。つまりこんな感じの、ちょっと小説版と展開は同じだし、論理も同じなのに、着地がちょっと違う、みたいになっているわけです。

あるいは、後に結婚するマックス(に当たるキャラクター)の扱いとかも、実は小説とかと全然扱いが違って。映画版の方は、男性側に対する、少なくとも今後の可能性……つまり思い直したり、反省したり。「俺たちは間違っていたかもしれない」って思い直す程度の可能性は、映画版はもうちょい残してる、という感じだと私は思いました。

しょーもなさも魅力のヨルゴス・ランティモス・ギャグ(笑)

ちなみにこのマックスに関してはですね、後に結婚する、比較的おとなしい男性なわけですけど。(ベラはマックスに)「鳩のような結婚」をいずれしましょうね、でも私は今はダンカンと冒険しに行く、なんて言うじゃないですか。そしたらリスボンに行って、要はマックスとの情事にベラはふけっているわけですね。ファックにふけっているわけですけども……そこでカメラが急に、すごいヨルゴス・ランティモス的な、ふざけたパンをするわけです。カメラがこうやって右側に行くと、タンスのところに、パタパタパタって鳩が来て。鳩が見ている、っていう(笑)。

こういうね、なんて言うのかな、「えっ、バカなの?」っていうギャグを入れてくるのも、ヨルゴス・ランティモス。前回の『女王陛下のお気に入り』でも、(自分の過去作を直接的に連想させる)「鹿」とか「ロブスター」を出してくるっていうのを……「俺の作品です!」みたいな、これはギャグなんだけど。それもちょっとね、ヨルゴス・ランティモス印かな、っていう感じがしました。

あとは、マーク・ラファロで本当にこんなに笑わせられるとは、思いもしませんでした!って感じですね(笑)。リスボンのバーのシーンでは僕、思わず声を上げて。「あっ!」って……思ったより(マーク・ラファロが頭をバーに打ち付ける勢いが)強めだったんで(笑)。「あっ!」ってこう、言ってしまいましたし。パリで、ベランダにいるベラに、その下にいる彼が泣きつくシーン。あれ、予告とかでも何度も見た場面なのに、本編の中で観ると、あんな笑えるところで出てくるんだ!っていうね。最高ですね。「まだいたの!?」っていう(笑)。最高ですよね。はい。

ホットトイズさん! ベラのフィギュア作って!

アレンジされたラスト。「権力構造の逆転」と、あと「置き換え」っていうのはこれ、すごくまさに、ヨルゴス・ランティモスさん的な風味のすごい強い着地、と言えるんじゃないですかね。非常に毒っ気強めな着地、という風に言えるんじゃないでしょうか。

あの着地そのものにちょっとモヤるものを感じた人は……僕は十分、原作を読んだ後だとより、(ベラが今後進むであろう方向についての)示唆はされてるな、という感じがいたしますが。原作のさらに複雑なバランスとか、その先のベラのキャリアなんていうのを見ると、さらにちょっと……まあさらに逆にモヤモヤが増える可能性もありますけど(笑)。(原作も)読んでみるとよろしいんじゃないでしょうか。

ということで、いろんなもちろんご意見、ご感想、解釈があると思いますが。一言で言えば、本当に隅から隅までとにかく作り込まれていて、リッチだし……面白いです! 2時間20分ありますけど、とにかく情報量が多いので、めちゃくちゃ速く感じるし。一回目では処理しきれないし。二度目以降はめちゃくちゃ速く感じます、ということでございます。

これはね、アートブック! メイキングアートブックが出たら、絶対に買うし。あと、ホットトイズさん……ベラ(のフィギュア)を作って! ベラ、作ってくれます? お願いします!っていう感じですね。

あと、本当にとにかくこの作品を観て、たとえば解釈でモヤった人も、すごくよかったという人も、ぜひ原作と読み比べることもおすすめしたい。観終わった後の感じが意外と近い、っていうところにやっぱり、感心してしまう。僕はこれはすごい見事な『哀れなるものたち』、アダプテーションとしてはすごいものがあるんじゃないかと思いました。

これはさすがに、アカデミー賞もいいところに食い込んできて当然か、という風に思いました。まあ、ご意見いろいろあろうかと思いますが、少なくとも観る価値はありすぎ、という感じでございます。ぜひぜひ劇場で……いい席を取った方がいいかもね。ケツが痛くならないように、ウォッチしてください!

(CM明け)

ちなみに原作小説だと、パリの娼館のくだりは実はそんなに長くない、っていうかむしろ、省略に近いぐらいの感じなんで、映画がどの部分をクローズアップしているか、という違いをね、興味深く観る意味でも、本当に小説、読み比べもおすすめしたいところです。

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