『世界最古の天文図が描かれた古墳』奈良の「キトラ古墳」に20年振りに行ってきた
20年振りに「キトラ古墳」を訪ねてみようと思った
JR東海の奈良観光キャンペーン「いざいざ奈良」、どうやら最近は“飛鳥推し”のようだ。
そのホームページをのぞいてみると、冒頭にはこんな文章が現れる。
「飛鳥は歴史の謎に満ちた日本誕生の地。6世紀後半から約100年間、宮都が置かれました。(中略)それまでの価値観を塗り替える一大イノベーションの発信地でした。」
なるほど、飛鳥を言い得て妙な表現である。
ちなみに筆者はというと、主に京都や大阪を中心に書籍などの執筆をしているのだが、「関西で一番好きな場所は?」と聞かれたら、迷わず「奈良!」と答える。
もちろん、京都や大阪も大好きな街だ。
しかし近年は、インバウンドの影響もあってか、どこか落ち着かない雰囲気を感じることが多い。
そんなこともあり、出張で京都や大阪での仕事が終わると、夜は奈良へ帰る。
つまり、奈良に泊まって、大阪や京都へ通うという、少し変わった出張スタイルを送っている。
そこまでしてしまうほど、筆者にとって奈良県は特別な場所なのだ。
しかしながら、そんな筆者にも、奈良を訪れた際になんとなく足が遠のいてしまう地域がある。
それが、「いざいざ奈良」で、推している飛鳥なのだ。
筆者が飛鳥にあまり足を向けなくなった理由は、たったひとつ。
あまりにも整備が進みすぎてしまい、かつての“飛鳥(明日香)らしさ”を感じにくくなってしまったからだ。
飛鳥という場所は、もともと歴史的な風土が、地形や自然と一体となって形づくられてきた土地だった。
現在は駐車場やトイレなども整備され、観光地としてはとても便利になったと思う。
雑草をかき分けながら、古墳などの遺跡を探していた昔に比べると、今はずっと見やすくなった。
それはそれで、多くの人に飛鳥の魅力を知ってもらうきっかけになるという点では、良いことなのかもしれない。
しかし今の飛鳥には、少なくとも四半世紀前には確かに吹いていた“明日香風”はあまり感じられなくなった。
訪れる度に、変わっていく飛鳥を見るのは、個人的にとても辛いことだったのである。
ところが、あることがきっかけで、それこそ20年振りに壁画古墳として知られる「キトラ古墳」を訪ねてみようと思い立った。
国営飛鳥歴史公園の一地区になった「キトラ古墳」
現在の飛鳥は、国土交通省によって、国営飛鳥歴史公園として整備されている。
この整備事業では、飛鳥を「高松塚周辺地区」「石舞台地区」「甘樫丘地区」「祝戸地区」「キトラ古墳周辺地区」の5地区に分け、それぞれの地域の特色を生かした公園づくりが進められている。
「キトラ古墳」は「キトラ古墳周辺地区」の南端に位置し、その北端には「檜隈寺跡」がある。
そして、両者の間には、体験工房や農体験小屋などの施設が設けられている。
「キトラ古墳周辺地区」は、特別史跡である「キトラ古墳」を、その周辺の自然環境や田園風景とあわせて一体的に保全するとともに、多くの人が飛鳥の歴史や文化、風土を味わい、ゆったりと過ごせるよう整備を行ったという。
ところが筆者としては、どうもこの整備の方向性が本末転倒なのではないかと思えてならない。
というのも、開発の進む飛鳥にあっても、少なくとも20数年前までは、「キトラ古墳周辺地区」の風景こそが、まさに“飛鳥の歴史や文化、風土を味わえる”場所に感じられたからである。
とりわけ、「檜隈寺跡」がある檜隈地区は、一歩足を踏み入れるだけで、まるで古代朝鮮の村落に迷い込んだような錯覚すら覚えた。
檜隈は、応神天皇の時代に東漢氏(やまとのあやし)の祖・阿知使主(あちのおみ)が渡来し、開発・居住した場所である。
東漢氏は後に軍事氏族として発展し、崇峻天皇を暗殺した東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)や、その一族である坂上田村麻呂らを輩出している。
では、なぜ筆者が20数年ぶりに「キトラ古墳」を訪ねたのか。
そのきっかけは、取材でお世話になった後、親しくなったならまちのイタリアンレストランでの出来事だった。
カウンターでワイングラスを傾けていた筆者に、奥からシェフが手招きをする。
促されるままに席を移ると、そこには東京からツアーで訪れていたというシニアの男女3人組がいて、ちょうどその日訪れたという「キトラ古墳」の話題で盛り上がっていた。
彼らと話すうちに、整備された墳丘や壁画を保存する管理施設など、「キトラ古墳」の現在の姿がぼんやりと見えてきた。
こうなると、もう居ても立ってもいられない。翌朝には、飛鳥へと車を走らせていたのである。
天文図などの5面の壁画は国宝に指定された
「キトラ古墳」は、飛鳥の南部、明日香村大字安倍山にあり、墳丘は低い安倍山の南斜面を平坦に削り整地して築かれている。
南側の尾根の先端に古墳を築くという手法は、古墳時代終末期の典型的な特徴だ。整備され、美しく復元された墳丘からは、二段築成の円墳という墳形がよくわかる。
また、墳丘の前には古墳についての解説板や、古代の古墳の姿を体感できる地形模型が設置されている。
さらに、墳丘のそばには、横口式石槨内に描かれていた四神や十二支、天文図を原寸大で浮き彫りにした金属製の壁画プレート(乾拓板)が設置されており、訪れた人はその壁画を写し取る「乾拓体験」を楽しむことができる。
これは、「キトラ古墳」が壁画古墳であることを、否が応でも印象づける工夫で、この日も、親子連れが乾拓板に紙を置き、鉛筆で熱心に壁画を写し取っていた。
「キトラ古墳」の壁画は、1983年に発見された。
これは、1972年に「高松塚古墳」で壁画が発見されてから11年後のことである。
「高松塚古墳」の壁画発見は、大きな考古学ブームを巻き起こした。
その影響で、「高松塚」周辺のいわゆる“聖なるライン”付近に点在する未発掘の終末期古墳の中にも、壁画が描かれているものがあるのではないかという憶測が広がった。
そうした中、「キトラ古墳」近くの住民から、「高松塚」に似た古墳があるとの情報が寄せられ、「キトラ古墳」の調査が始まった。
そして、発掘によるものではなく、横口式石槨に開けられていた盗掘孔からファイバースコープを挿入するという方法で、壁画が発見されたのである。
石槨内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画が描かれていた。
ちなみに四神とは、天の四方を司る神獣で、壁画は対応する方位に合わせて、東壁に青龍、南壁に朱雀、西壁に白虎、北壁に玄武が描かれている。
四神の下には、動物の頭と人間の体で十二支をあらわした獣頭人身の十二支が描かれていた。
そして、天井には天文図と、東に金箔で太陽が、西に銀箔で月が描かれていた。
この天文図は、赤道や黄道を示す円を備えており、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の例といわれる。
この壁画5面は、2019年に国宝に指定されている。
「壁画体験館 四神の館」は必見の施設
整備された「キトラ古墳」は、想像以上に素晴らしいものだった。
そして「キトラ古墳」を訪れたのであれば、壁画古墳について学べる体験型施設「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」は、ぜひ足を運んでいただきたい場所である。
この施設には、「キトラ古墳壁画」を保存・管理する壁画保管室や、古墳から出土した副葬品を保管する出土品保管室が設けられている。
さらに館内には、実物大の石室レプリカの展示や、壁画に描かれた四神を高精細映像で、実物の最大100倍の大きさまで映し出す4面マルチビジョンなどもある。
ここを訪れれば、古墳に関する予備知識がなくても、「キトラ古墳」の貴重さや魅力を十分に学ぶことができる、まさに絶好の施設だと断言できる。
キトラ古墳については、まだ語り尽くせたとは言い難い。
稿を改めて、墳丘の構造や埋葬施設、壁画の詳細を紹介しつつ、この古墳の被葬者像にも迫っていくつもりである。
※参考文献
小笠原好彦著 『検証 奈良の古代遺跡』 吉川弘文館刊
山本 忠尚著 『高松塚・キトラ古墳の謎』 吉川弘文館刊
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部