ちあきなおみ版が複数のCMに起用されスタンダード・ナンバーとして人々の耳なじみとなった昭和34年リリースのオリジナル盤 水原 弘「黄昏のビギン」
1959年(昭和34)、現在も続く公益法人日本作曲家協会主催の日本レコード大賞が創設された。69年の第11回からは、大晦日の「NHK紅白歌合戦」が始まる前の19時から21時に本選「輝く!日本レコード大賞」が開催、TBS系列で生中継されるようになり、誰が大賞を獲得するのかは、レコード業界のみならず日本国民の大きな関心事となり、賞のネームバリューも上昇し、「紅白」同様、大晦日のお茶の間には欠かせない番組として高視聴率を誇った。今でこそ、賞の権威は大きく低下しているが、70年代、80年代には、テレビの歌番組の隆盛と共に最盛期を迎えた。
その第1回の大賞に輝いたのが水原弘が歌った「黒い花びら」だった。当時、レコード業界では新興勢力だった東芝レコードからデビューした水原弘のデビュー曲で、発売初年に30万枚という当時としては大ヒット作となった。新人デビュー年での大賞受賞は、現在においてもレコード大賞史上、水原弘が唯一である。忖度など一切関与することのない、正当な審査だったことを思わせる結果である。新人がいきなりレコード大賞に輝いたことから、この年には新人賞は設けられていない。歌唱賞は、水原と大賞を競った「夜霧に消えたチャコ」のフランク永井だった。
水原弘は日本初の芸能プロダクションで、坂本九、森山加代子、ジェリー藤尾らを育てたマナセプロダクションに在籍していたが、一時期、渡辺プロダクションの所属になり、井上ひろし、釜萢ヒロシ(後のかまやつひろし)と共に〝三人ひろし〟と呼ばれていた。ただ、水原の持つ歌手としての資質が、当時のロカビリー・アイドルとしては異質だったせいか、後に守屋浩と交代することになる。「黒い花びら」は作詞・永六輔、作曲・中村八大の〝六・八コンビ〟による第1作となる作品で、水原の甘い低音ながらドスの効いた声質にピッタリとはまった。
2014年弊誌第20号の特集「村松友視の私小説的昭和歌謡曲」で、作家の村松さんは水原弘の出現を「かつてプレスリーに感じたのと同じ衝撃を受け、初めて自分好みの歌謡曲に出会った感じだった」と書いている。そして、「少し年上の水原弘の不良っぽさと、正統的な歌手としての実力との危ない溶け合いに、魅了されたといってよかった」とも。水原弘は「黒い花びら」の大ヒットにより、紅白歌合戦にも初出場を果たした。ザ・ピーナッツ、森繁久彌も59年の初出場組である。「森繁が紅白に?」と驚く人もいると思うが、森繁は連続7回も出場している。森繁に限らず、乙羽信子、月丘夢路、久慈あさみ、高田浩吉、フランキー堺、水谷良重(現・二代目八重子)など、実は多くの俳優たちも〝歌う映画スター〟として紅白に出演していた。吉永小百合も62年から66年まで連続5回出場している。
水原弘の2枚目のシングル盤として「黒い花びら」と同年の11月にリリースされたのが「黄昏のビギン」である。この曲は〝黒い〟シリーズ第2弾として作られた六・八コンビによる「黒い落葉」のB面だった。その翌年には第3弾「黒い貝殻」もリリースされている。「黄昏のビギン」の作・編曲も中村八大で、作詞には共同作詞として永六輔と中村八大の名前が記されている。永六輔は、かつて自身のラジオ番組で、「黄昏のビギン」が自身の曲の中で一番好きだと明かしていた。〝ビギン〟というのは、フランス領マルティニクのダンス音楽で、これがパリに持ち込まれたことで、ジャズのスタンダード・ナンバーであるコール・ポーター作曲の「ビギン・ザ・ビギン」が誕生した。日本ではフリオ・イグレシアスの歌声でヒットした。
レコードのB面だったせいか、発売後しばらくは世間の耳目を集めるにはいたっていなかったが、キャバレーやスナックなどではA面の「黒い落葉」よりリクエストも多く、また、当時多く存在していた盛り場の流しの歌手たちにも、好んで披露されていたという。そういう意味では、巷から、大衆から評判となった曲と言えよう。レコードがリリースされる前の59年8月に、水原弘が出演した東宝映画『青春に賭けろ』と『檻の中の野郎たち』が立て続けに公開された。この2作には、水原のほかにも、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、坂本九、ジェリー藤尾、井上ひろし、寺本圭一、守屋浩、田辺昭知、釜萢ヒロシなど、多くのミュージシャンたちが出演しているが、『檻の中の野郎たち』では、同じメロディで歌詞が違う「黄昏のビギン」の原型となる曲が、ミッキー・カーチス、山下敬二郎、守屋浩によって歌われるシーンがある。59年の東芝レコードの流行歌のレコード・セールスでは、1位が「黒い花びら」、2位が「黒い落葉/黄昏のビギン」だった。
それでも、「黄昏のビギン」が幅広く認識されるには時間が必要だった。91年にちあきなおみがカバーアルバム『すたんだーど・なんばー』に「黄昏のビギン」を収録し、アルバムに先行してシングル盤がリリースされた。編曲は服部良一を祖父に、服部克久を父にもつ作・編曲家でテレビドラマ「ブギウギ」や「真田丸」の音楽でも知られる服部隆之が手がけたが、中村八大は服部のアレンジが一番好きだと言っていたという。
そして91年10月から半年間、京成電鉄「スカイライナー」のテレビ・コマーシャルに使用され、視聴者の耳に、どこか懐かしくもあり、また新鮮な魅力の大人好みの楽曲として届くようになった。99年には、やはりちあきなおみ版が、ネスレ日本の「ネスカフェ・プレジデント」のCM曲として流れ始め、2003年まで4年のロングランとなった。その時期、ちあきなおみは夫である郷鍈治の死をきっかけとして表舞台から姿を消していたこともあり、楽曲の知名度も上昇し、ちあきなおみの歌唱力、歌い手としての魅力も、再認識されることになった。
2000年には、「かもめの街」とのカップリングで、再販されている。さらに、2011年には、トヨタ自動車の「ReBORN DRIVE FOR TOHOKU」のCMにも楽曲が使用され、文字通りの〝スタンダード・ナンバー〟となった。ちあきのほかにも、中森明菜、さだまさし、薬師丸ひろ子、柴咲コウ、井上陽水、稲垣潤一、髙橋真梨子、大竹しのぶら、さまざまなアーティストによってカバーされている。そうなってくると、オリジナルの水原弘バージョンを聴いてみたくなってくるのだ。イントロや間奏でのトランペットの演奏が印象的で、どこか、昭和30年代のスクリーンの中から聞こえてくるような気がする。小雨が降るたそがれ時の街を傘もささずに歩く恋人たち。やがて雨はやみ、夕空晴れた街の景色。恋人たちは並木の陰で初めてのキスを交わす、というフランス映画のような洒落た、小粋なスケッチが描かれている。水原弘の歌声も声の魅力だけでサラッと歌い流していて、テンポもちあきなおみバージョンより速い。行間を読ませるようなドラマ性を感じさせてくれるちあきなおみ、どちらもその個性で味わいを出している。
水原弘は〝芸能界屈指の酒豪〟と呼ばれるくらい、飲酒に関する逸話が残る。酒浸りの放蕩三昧で、60年代には低迷の日々を送っている。だが、再び水原弘の名前に光が当たる日が訪れる。67年にリリースした「君こそわが命」(作詞:川内康範、作曲:猪俣公章)が大ヒットし、〝奇跡のカムバック〟と称されるのだ。年末の日本レコード大賞では、伊東ゆかりと共に歌唱賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも6年ぶり、4回目の出場を果たす。その後も「愛の渚」「へんな女」「お嫁に行くんだね」などがヒットし、73年まで連続7回、通算10回の紅白出場を記録している。
だが、カムバックから3年を経過したあたりから、再び放蕩三昧の生活に戻ってしまう。残念ながら、10回目の紅白出場以降、水原弘は、表舞台からまたもや姿を消してしまうのだ。前述の弊誌の特集記事の中で、村松さんは「水原弘は、芸能界の中では異彩を放ったものの、その業界で身につけた無頼の枠を、ついに超えることができぬまま壮絶に散った」とくくっている。
70年に、由美かおるとともにアース製薬のエアゾール式殺虫剤「ハイアース」のテレビCMに出演していた。同商品のホーロー看板も、全国津々浦々に設置された。つい最近まで、地方の田舎町あたりに行くと、「ボンカレー」の松山容子の顔と並んで、錆びかけたホーロー看板に写る水原弘が存在していた。
水原弘を思うとき、そこには芸能界の〝光と影〟という言葉が僕の中につきまとう。42歳という若さで鬼籍に入ってしまったが、レコード大賞の歴史とともに、水原弘の名前は日本歌謡史に永遠に刻まれる。水原弘、ちあきなおみをはじめ、中森明菜、薬師丸ひろ子、大竹しのぶ、柴咲コウ、三山ひろし、島津亜矢、井上陽水、さだまさしら「黄昏のビギン」だけを集めた『黄昏のビギン 百花百歌』といった趣のコンピレーション・アルバムを作って聴き比べてみるのも一興かもしれない。
文=渋村 徹 イラスト=山﨑杉夫