パッパラー河合の、あの時のあの愛用ギターを一気見せ!
爆風スランプのギタリストにして、ポケットビスケッツなどのプロデュースでも知られるパッパラー河合。ステージを所狭しと駆けめぐり、笑顔で汗だくになりながら、楽しそうにギターを弾く男。数々の伝説を残してきたギタリストはどんなギター遍歴を歩んできたのか? コレクションと共にその歴史をひもとく。
ギターで世界が広がった
2022年に放送されたアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』は、ひとりぼっちでギターテクを磨く人見知りの少女が、バンド活動を始めてギタリストとして成長するさまを描き、話題を呼んだ。ギターを持てば、世界が広がる。諸兄のなかにもこうした思いを思春期に抱いた人がいるだろう。昭和50年男にとっての“最も楽しそうにギターを弾くギタリスト”パッパラー河合もギターで世界を広げたひとりだ。
「若い頃はギターは高くてなかなか買えませんでしたから、後になって思い出を取り戻すためにギターを買い直したりすることがありますね。うん、それは今でも(笑)」
プログレ少年最初の曲は「虹と雪のバラード」
そんな河合のギター遍歴は、小学5年生までさかのぼる。
「札幌オリンピックのテーマ曲『虹と雪のバラード』(トワ・エ・モア)をどうしても弾きたくて、母親の実家にあった白いギターを手に取ったんですよ。白いギターって、土居まさるさん司会の『TVジョッキー』(71〜82年/日本テレビ系)で賞品になっ ていて、流行っていたんです。ただ、いざ弾こうとしたら、弦が1本しかなくて(笑)。それでも弾いたんですよ。弾けるもんです」
自分のギターを持ったのは、中学に入った時だった。
「親にねだって、柏(千葉県) の楽器屋さんでフォークギターを買ってもらったんです。確か1000円、4500円、1万円というラインナップで、真ん中の4500円のものを買ってもらった。どこのものかはわからないけど、悪くないギターでしたよ。さすが4500円!」
そのギターでフォークを練習するかたわら、彼の運命を変える音楽に出会う。プログレッシブロック、いわゆるプログレ。プログレッシブの名のとおり、先鋭的な音楽で、ジャズから現代音楽まで多様なジャンルを取り入れ、変調、転調も繰り返される。プレイヤーにとっては技巧が必要なロックである。
「もう完全にどっぷりハマってね。中学を卒業する頃には立派なプログレ少年です」
ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、イエス、ジェネシス、エマーソン・レイク・アンド・パーマー(ELP)…片っ端から耳を傾けていく日々を経て、高校生になった河合は軽音部に入る。ここで初めてエレキギターを入手する。
「そこで友達からクイーンのブライアン・メイ・モデル、グレコのBM-900を買ったんですよ。その友達が突然『これからはブライアン・メイの時代じゃない』とわけのわからないことを言い出して(笑)。ギターにローランドのジェット・フェイザーと小さなアンプを付けてくれて4万5000円だったかな」
後にクイーンの日本語カバー「女王様」で活躍することを考えると運命的な出会いだが、このギターで練習したのは…。
「ギター少年なら必ず通るジェフ・ベック。プログレ少年としては、キング・クリムゾンのロバート・フリップもやるんだけど、難しいのと、ポップな曲がなかった(笑)。『21世紀のスキッツォイド・マン』とかをコピーするんだけど、難しかったなぁ」
変わったバンドなら変わったギターを持とう!
河合の音楽熱はますますヒートアップしていき、バンドマンになりたいと考えるようになる。
「親からは、大学へ行ったらバンドをやっていい、と言われたので、大学入った年の4月には、高校時代からの先輩のバンドに 入ってライブをやってたんです」
バンドの名前は「スーパースランプ」。そのライブの客席に高校からの遊び友達がいた。後のサンプラザ中野くんである。
「中野はバンドをやっていなかったんですよ。それが、ライブを観て『オレもやりたい』と。当時アマチュアバンドをやる人間は楽器を弾きたいやつばかりで、ボーカルがいなかった」
かくしてボーカルを手に入れたスーパースランプは、ほどなくコンテストへ出場する。
「当時はコンテスト流行りで、ヤマハがやっていた『イーストウエスト』に出よう、と」
イーストウエストは76年から86年まで開催されたアマチュアバンドのコンテストで、サザンオールスターズ、シャネルズ、子供ばんど…これを足がかりにプロデビューするバンドが多かった。
「あれよあれよという間に予選を通過して、本戦の中野サンプラザへ…そこで『プロになれるぞ!』と(笑)」
アナーキーな曲の数々と、観客を魅了するパフォーマンスで この年決勝に進出したスーパースランプは、翌年には同コンテストで準グランプリを獲得する。
「でも、プロから声がかからないんです。準優勝してからも1年くらい何も変わらなかった。その時に爆風銃(バップガン)にいた連中から声をかけられるわけです」
爆風銃はスーパースランプが準優勝した際に優勝したファンクバンド。同様にプロデビューできずにいた爆風銃のベース・江川ほーじん、ドラムのファンキー末吉と、スーパースランプの中野、河合がプロを目指して合体したのが爆風スランプだ。
「オレたちはプログレやテクノだったり、奇っ怪な音楽をやっていて、彼らはファンク。でも別ジャンルの音楽が合わさったら、おもしろいんじゃないか、ということになったんですね」
より多彩になった音楽性とテクニック、そして独特のパフォーマンスで、爆風スランプはライブシーンの人気をさらう。
「とにかく伝説を作りたいってことで、小麦粉をまいたりして…。当時はもっとすごいことをやっていた方々がいらっしゃいましたけど、プロになりたかったから、ライブハウスの方の迷惑にならないように、節度をもって暴れていました(笑)」
一風変わったバンドーー 河合の持つギターも変わった。
「変わったことをやるんだから、変わったものを持たないと、とグレコのエクスプローラーモデルを予備も含めて2つ買いました。いわゆる稲妻形のモデルで、ギタースタンドにも立てづらい(笑)。結構使っていたんだけど、どこかへいっちゃったんだよねぇ…」
シグネチャーモデル、ヤマハ MG‐K
ほどなく、爆風スランプはレコード会社から声がかかり、84年にシングル「週刊東京『少女A』」とアルバム『よい』でデビューを果たす。
「デビューするという時に、初めてESPに自分仕様で作ってもらったモデルが印象深いですね。ボディをショッキングピンク、ピックガードを黄色にして、ヘッドの形を変えてね。ライブで使いたかったので、トーンはいらねえや! って取っちゃった(笑)」
語弊があるのを承知で説明すると、トーンポットを取るということは、音の明るさの調整を捨てる、演奏の勢いに勝負をかけるギターになる。まさに初期爆風スランプのライブの雰囲気が伝わってくる一本だ。
「ちなみに、1stアルバムはムーンのテレキャスターで作りました。ムーンはシェクターのパーツを取り寄せて作る会社で、デビューする直前にお茶の水の宮地楽器で買いました。色は自分で黄色く塗っちゃった。後にヤマハでメンテナンスをお願いしたら、ヘッドにヤマハのシールを貼られちゃったんですよね(笑)」
その後、「大きな玉ねぎの下で」が入った2ndアルバム『しあわせ』(85年)以降レコーディングで使っていたのが、ヤマハのセッションⅡ–603Pだった。
「初めてヤマハに提供してもらったギターで、4枚目の『JU NGLE』(87年)くらいまでメインギターとしてレコーディングにも、ライブにも使っていましたね。それであまりにもいいという話から、MG–Kにつながるんです」
そう、ヤマハMG–Kといえば、パッパラー河合のシグネチャーモデル、つまり名前を冠したギターだ。シグネチャーモデルが作られるのはギタリストとして、大きな栄誉である。
「オレが使っていたのは、市販品のプロトタイプ。小ぶりで軽いんですよ」
まさに、武道館の端から端までギターを持って走り回っていた河合にピッタリのモデルだ。ネック上のフレットの間も狭く、 通常のエレキギターが21〜22フレットのところ、このMG–Kは25フレット(市販品は26フレット)ある。
「オレ自身もしばらく弾かないと感覚がわからなくなるくらい狭い。ただ、軽いから女性には弾きやすかったみたいで、当時 ピンクサファイアという女性バンドのギターの子が使っていたらしいんですよ。何せ雑誌で『私が使っているのはパッパラー河合モデル(笑)』って答えていましたからね。なんだよその“(笑)”ってのはよ!(笑)」
時期によって変わるメインギターがもつ歴史
しかし、これだけ多くのギターを、河合はどうやって使い分けてきたのだろうか?
「確かにレコーディングではいろんなギターを使ったりしますが、わりとその時々によって、メインのギターを変えるタイプなんですよ。『怪物くん』(97年)、『ハードボイルド』(98年)あたりでレコーディングのメインにしていたのが、フェンダーの76年製ストラトキャスターでした。リズムもフロントでジャカジャカと刻めるから、気に入って使っていました。96年くら いからメインで使っているのはヤマハのパシフィカですね。軽くていい音が出るから気に入っているんです」
ギターを取り出す度に、河合の口からその時々の思い出が飛び出してくる。
「ポケットビスケッツのレコーディングで使いまくったのは、ヤマハのSG–3000。アルバムはほぼこれでやりました。あと、アコースティックでメインにしていたのが、ヤマハのAPX–20Cですね。これは『進め!電波少年』(日本テレビ系)で猿岩石のユーラシア横断ヒッチハイクの応援にインドへ行って、彼らの前で歌った時のギターです」
名曲「旅人よ〜The Longest Journey」(96年)を生み出したギター。一本一本がその伝説を語りかける。最後に、旺盛な活動を続ける今、気になっているギターを挙げてもらった。
「この前、ヨッちゃん(野村義男)と一緒になった時に、ゴールドトップのレスポールを弾いていて、すごくいい音を出して たんですよ。それで“レスポールもいいなぁ”と思い出して、選んで買ったのがグレコの78年製EG–800。これをライブで使いこなせるようにしたいなぁと画策しています」
新たなギターと共に、またひとつの歴史が紡ぎ出されようとしている。
あの時のあの愛機を紹介!
1.グレコ BM-900|高校時代、初めて手にしたブライアン・メイ・モデル
ブライアン・メイはピック代わりに6ペンスコインを使い、父と作ったギター「レッド・スペシャル」を操ったことで知られる。そのレプリカモデルがこちら。「これは、後から買い直したものですけどね」
2.グレコ EG-800J|ジェフ・ベックをコピーしていた高校時代の思い出
「ジェフ・ベックはストラトキャスターのイメージもあるし、レスポールならギブソンのオックスブラッドが本物だけど、コピーだからこそいいんですよ(笑)。大人になって、いいなと思ってつい買っちゃいました」
3.ESP スナッパー|ライブパフォーマンスに特化したカスタムモデル
ESPは1975年創業のギターメーカー。Charのシグネチャーモデルを作っていたことでギター少年の憧れに。当初は渋谷に店を構えており、河合もそこでライブに特化したカスタムを作ってもらったという。
4.ムーン テレキャスター タイプ|1stアルバム『よい』を作った
「ムーンのギターは、わりとフュージョン系のギタリストが使うイメージでしたね」。ESPのメンバーを中心に、1978年に創業。当初は高品質で知られた米シェクターからパーツを取り寄せて作っていた。
5.ヤマハ セッションⅡ-603P|80年代後半のメインギター
ストラトキャスターをヤマハがリファインして作り出したセッションシリーズの一本。「80年代後半のメインギター。ピックガードにあるサインは、太田裕美さんとご一緒した際にいただいたものです(笑)」
6.ヤマハ MG-K(プロトタイプ)|ギタリストの夢、シグネチャーモデル
1988年発売。軽量コンパクトなので、取り回しのしやすい一本。MGではもう一本、B’zの松本孝弘のシグネチャーモデル(MG-M)が同時期に登場。MG-Kは後に後継機種のMG-KⅡも発売された。
7.フェンダー 1976 ストラトキャスター|時を経てヴィンテージに!
フェンダーの定番、ストラトキャスター。「1976年 製のものですが、買った80年代にはヴィンテージじゃなかった(笑)。本当はボディがクリーム色だったんだけど、年が経つほどに黄色くなった。おもしろいですよね」
8.ヤマハ パシフィカ|最も愛用したゆえの悩み
「使いすぎてフレットが削れちゃって、打ち替えようか悩んでいるんですよ。新たに買ってみたんですけど、音が全然違う。だから、フレットを替えたら、音も変わっちゃうんじゃないかと思って、悩むところなんですよ」
9.ヤマハ SG-3000|ポケビの曲で大活躍した逸品
ポケットビスケッツのプロデュース時に大活躍したというSG-3000は、芯のある太い音で多くのファンをもつ逸品。「ちなみにSG-1000の青は高中正義さんが使っていたことで有名ですよね」
10.ヤマハ APX-20C|猿岩石の名場面に登場
やや小ぶりで、薄めのボディが特徴。「1990年から使ってきて、世界中いろんな所へ持っていきましたね 。ボディの後ろには猿岩石の二人のサインが入っていますが、少し薄れてきちゃいました」
11.グレコ EG-800(1978)|新たなメインギターに!?
「当時、日本製のギターは海外製より安く買えたけど、すごく質のいいギターぞろいなんですよ」という1978年製EG-800。「オレが学生の頃、クリエイションの竹田和夫さんがグレコのCMやっていて、あこがれたなぁ(笑)」