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『ブギウギ』の笠置シヅ子が「紅白歌合戦」のトリを飾った1956年、三橋美智也は「哀愁列車」で初出場し昭和歌謡界を牽引した

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『ブギウギ』の笠置シヅ子が「紅白歌合戦」のトリを飾った1956年、三橋美智也は「哀愁列車」で初出場し昭和歌謡界を牽引した

シリーズ /わが昭和歌謡はドーナツ盤

 本稿がアップされる3日後の大晦日、第74回NHK紅白歌合戦が放送される。しかし、長年の紅白ファンにとっては、英語表記のグループや楽曲ばかりが目について、ここ数年は全出演者、全曲をしっかりと見届けた記憶がない(テレビを前に居眠り時間が増加の一途)。一年の区切りのお祭りに水を差すつもりなどないが、わが昭和歌謡「紅白」ベストワンの思い出をお届けして2023年(令和5)の本シリーズ連載の掉尾としたい。

 もう三橋美智也を懐かしむ人は、歌謡曲ファンといえどもわずかしかいないだろう。しかし昭和歌謡界の〝モンスター(レジェンド)〟であることは間違いない。

 ちなみに曲別のレコード売上枚数の記録から。まず、歌謡曲。①「古城」300万枚、②「リンゴ村から」「星屑の町」270万枚、④「哀愁列車」250万枚、⑤「夕焼けとんび」「達者でナ」220万枚、⑦「おんな船頭唄」「母恋吹雪」200万枚、⑨「あの娘が泣いてる波止場」180万枚、⑩「お花ちゃん」「一本刀土俵入り」「赤い夕陽の故郷」「武田節」「石狩川悲歌」150万枚、⑮「男涙の子守唄」120万枚、⑯「あゝ新撰組」「おさげと花と地蔵さんと」110万枚、⑱「おさらば東京」100万枚、以上18曲がミリオンセラーである。他に筆者の知る「ご機嫌さんよ達者かね」などもラインナップされていなくても、誰でも知り口ずさんでいた楽曲である。

 続いて、三橋によってスタンダードになった民謡も数知れない。①「相馬盆唄」「炭鉱節」280万枚、③「花笠音頭」270万枚、④「黒田節」「北海盆唄」260万枚、⑥「ソーラン節」「斉太郎節」「佐渡おけさ」250万枚、⑨「津軽じょんから節」180万枚、⑩「木曽節」「江差追分」170万枚、⑫「相川音頭」130万枚。これが歌謡曲、民謡合わせて上位30曲である。

 日本の歌謡界で、ミリオンセラーをこれだけ記録した歌手は他にいない。1954年(昭和29)のキングレコード「酒の苦さよ」がデビュー曲とすれば、29年後の1983年(昭和58)にはレコードのプレス枚数が1億枚を突破し、生涯の売上枚数1億600万枚(オリコン発足前の記録)というのだから恐れ入る。日本の隅隅まで三橋美智也の歌声が届いていた時代があったのだ。「三橋で明けて三橋で暮れる」とはよく言ったもので、ボクの小学生時代の昭和30年代は、あの高音の透き通った声と、独特の節回しが毎日どこからか聴こえていた。同い歳のフォークソングの南こうせつさんは、実家であるお寺の檀家衆の集まりで、三橋美智也を声高らかに歌うと大絶賛され投げ銭ならぬ小遣いをいただけたという。「小学生の分際で500円にもなって、歌を歌えばお金になるという勘違いからボクの歌手人生は始まった」と笑って語っていたことがある。

 という次第で、1956年(昭和31)第7回「NHK紅白歌合戦」に初出場した三橋の楽曲は、「哀愁列車」(作詞:横井弘、作曲:鎌多俊与)であった。紅組の対抗は4回目出場の江利チエミが大きな目をクリクリさせながら「お転婆キキ」を歌唱。白黒テレビを食い入るように見ていた小学1年生のボクはとっくに「哀愁列車」の歌詞を諳んじていたが、「ほ~れ~て~、ほれて~」といきなり最高音の出だしの詞から終わりまで、一体何の意味かも分からずに声を張り上げていたのだった。明治生まれの親父は、残念ながらお小遣いならぬお年玉は奮発してくれなかったが、わずか7歳で三橋を歌うボクを嬉しそうにして目を細めていた。

 この年の紅白では、朝ドラ「ブギウギ」のモデルと言われている笠置シヅ子が「ヘイ・ヘイ・ブギ」を歌って大トリを飾っている。美空ひばりにとって代わる直前の笠置シヅ子は人気絶好調だったと思えるが、翌年の1957年、何と紅組美空ひばりの大トリを向こうに回して三橋が白組のトリとなって「リンゴ花咲く故郷へ」で対抗した。さらに翌1958年も白組トリで「おさらば東京」を歌唱。次から次へと大ヒットを連発する三橋の勢いを感じさせる昭和30年代のスタートを物語っている。

 あえて三橋の紅白における実績を追えば、1959年は「古城」で島倉千代子に対抗、1960年やはり島倉千代子の対抗に「達者でナ」で初大トリを務め、1961年「石狩川悲歌」で再び江利チエミと対戦、1962年「星屑の町」で二度目の大トリを飾る。1963年「流れ星だよ」(島倉)、1964年「また来るよ」(江利)、1965年「二本松少年隊」(島倉)と、紅組の大物歌手らと相次いで対戦を繰り返す連続10回の出場だった。

 その後、三橋は糟糠の妻と別れたことが原因と騒がれながら紅白出場が途絶える。9年のブランク後、驚くべきことに1974年(昭和49)11回目の出場を再び「哀愁列車」で果たしたのである。対抗したのは「あなた」の小坂明子、1975年「津軽じょんから節」で対抗は山口百恵、1976年「津軽甚句」で森昌子、1977年「風の街」で南沙織と紅組女性軍はすっかり若返って三橋に対抗した。

 どうだろうか。あえて数字を裏付けて〝モンスター〟ぶりを振り返ってみたが、頭角を現す以前の苦労は半端ではなかった。当時の歌謡界には貧困や苦労のはてにレコードデビューを果たしたスターが多く、三橋とて例外ではなかった。1930年(昭和5)11月10日北海道上磯郡上磯町峩朗(現在の北斗市)出身だが、実父とは3歳の時死に別れ、農場に住み込みで働く母は同じ職場の作業員と再婚。3人の異父母兄弟がいた。ただ、母は民謡の歌い手だったことで幼いころから声を鍛えられ、歌唱力を身に着けていく。小学生になったころにはいっぱしの民謡を歌う少年で、母と巡業をしながら家計をささえたという。津軽三味線を習いはじめ民謡一座で修行することもあった。そして19歳の時に一攫千金を思ったか、三味線一本を持って上京し、銭湯のボイラ―マンをやりながら民謡と三味線の練習に明け暮れる。しばらくして定時制高校に通わせてもらうほど、とにかく三橋は勤勉で真面目によく働く少年だった。23歳でひょんな切っ掛けでキングレコードの専属歌手になり、前述のように、1954年に「酒の苦さよ」でレコードデビューすると、1955年に「おんな船頭唄」が大ヒット。流行歌手、三橋美智也が誕生したのである。その後の三橋は突っ走るばかりで、CMソングの「おやつはカール」は20年間で31作にもなっている。1978年(昭和53)には「電撃わいどウルトラ放送局」(ラジオ関東)のパーソナリティに抜擢され、初めてDJを経験し、「ミッチー」の愛称で若者にも人気を呼んだ。「フィーバー!」を連呼したカップ麺のCMが話題となって、和服姿が多かった演歌の三橋が、ジョン・トラボルタ風の衣装をまとったときは唖然としたものだった。人気がピークを過ぎたころにはホテル業などにも手を出したり家庭不和が騒がれたりもしたが、1996年1月8日、65歳で病没。途轍もない存在だった昭和歌謡のモンスターは、間違いなく昭和のスーパースターだった。

文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫

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