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【Do As Infinity インタビュー】④ 大渡亮を作った20代の音楽はレッチリやPファンク?

Re:minder

2005年09月29日 Do As Infinityの解散日

結成25周年を迎えたDo As Infinity。ボーカルの伴都美子とギターの大渡亮が影響を受けた音楽、そして四半世紀にわたる波乱万丈の活動を語るスペシャル・インタビュー。第4回は《自分を作った音楽》として、大渡亮に “20代の1曲” を挙げてもらった。そして、1990年代に大渡がハマったロックやブラックミュージックなどの音楽源歴と、Do As Infinity結成に至るまでのエピソードを語ってくれている。

メタルの中でも異端だったリヴィング・カラー


―― 前回は、10代の頃に影響を受けたロックバンドやアーティストについて語っていただきました。リアルタイムで聴いたハードロックから時代を遡って、ジミ・ヘンドリックスまでたどり着く過程は大変面白かったです。

大渡亮(以下:大渡):ジミヘンとの出会いは相当大きかったです。自由にギターを弾いていいんだ、自分が道を作っていくんだ、とはっきり思わされたギタリストでした。僕が生まれる前の人なのに、三世代ぐらい後のガキも打ちのめすことができる凄さですね。あと、ジミから学んだこととして、リズムにうねりのある、ファンキーなビートというものを初めて意識しました。そういうものに興味が湧き始めた高校2年の時に出会ったのが、メタルの中でも異端だったリヴィング・カラー。ドレッドヘアの人がいたり、アフロアメリカンのカルチャーが音に出ていて、そういう音楽もスッと入ってきました。

―― まだミクスチャーという言葉が浸透する前ですよね。

大渡:そうですね。曲や、ベースのあり方が独特で、どんなハードロックより夢中になって、似たようなバンドを探して出会ったのがレッド・ホット・チリ・ペッパーズ(以下:レッチリ)です。

レッチリからブラックミュージックの扉がバーッと開いてしまった


―― 今回、《自分を作った音楽》として20代の1曲に選んでいただいたのが、レッチリの「ギヴ・イット・アウェイ」(1991年)でした。

大渡:リヴィング・カラー、レッチリ、フィッシュボーンの3バンドがとにかく好きでした。実はレッチリってデビューが1984年と古く、ファーストはギャング・オブ・ウォーのアンディ・ギルがプロデュースして、セカンドアルバムの『フリーキー・スタイリー』(1985年)は僕が高校の時です。まだその時はキャッチできていなくて、注目したのは1989年の『母乳』(Mother's Milk)からです。16ビートでギターを弾くことに興味が出てきて、その際に、最初はベースがやりたかったという気持ちを思い出し、ブラックミュージックの扉がバーッと開いてしまったんです。

そこからジェームズ・ブラウンまでは時間がかかりませんでした。JBの影響は結構大きくて、ずっとワンコードで自分の衝動を全て出す、みたいなことに興味を持って、スタジオでメンバーを捕まえては、E7のコードを延々セッションしたり。その後、先日亡くなったスライ・ストーンも聴きまくって、それを突破口にしてパーラメント、ファンカデリックと、あの辺は全部ハマって聴きました。

―― とうとうPファンクまで辿り着きました。

大渡:それが1990年代の頭。まだその時は1977年の『ライヴ‼Pファンク・アース・ツアー』がCD化されてなくて、それを熱望している時に、Pファンク・オールスターズ名義の2枚組アルバムが出たんです(1983年の “ATOMIC Dog Tour” LA公演を収録した『LIVE AT THE BEVERLY THEATER IN HOLLYWOOD』)。ドラムがデニス・チェンバースで、Pファンクとしては異質のアルバムですが、僕らのオンタイムのPファンクのライブといえばこれだった。そこからブラックミュージックへの傾倒時期が長かったですね。

クール&ザ・ギャングもこんなに凄かった!


―― レッチリを突破口に、ソウル、ファンク系に向かって行ったと。

大渡:スティーヴィー・ワンダーもアイズレー・ブラザーズも聴きました。クール&ザ・ギャングも「チェリッシュ」だけじゃなかったんだ!こんな凄かったんだ!と。レイ・パーカー・ジュニアも「ゴーストバスターズ」の人かあ、と思っていたら全然違った(笑)。

―― アース・ウィンド・アンド・ファイアーは?

大渡:アースはお洒落すぎて後回しにしていたけど、結局アルバム曲も聴きたくなって、ほとんど全部聴きました。1回気になると止まらなくなるんです。あとはプリンス。僕が楽器を手にする前に『パープル・レイン』(1984年)で出会っていましたが、その後の『パレード』(1986年)は、当時はよくわからなかった。2000年代のアルバムはかなりいいですね。『The Rainbow Children』『Musicology』『3121』、この3枚はヤバいです!ちょっと幅が広すぎるかもしれないけど(笑)

―― スライ、Pファンク、プリンスという流れはすごくわかります。いわゆるロックファンにも支持が高かった、ファンク系のブラックミュージックですね。

大渡:ギタリストとして、16ビートを演奏する感覚ですね。何よりレッチリがブラックミュージックの扉を開けてくれたことは間違いないです。でも、ブラック系を一通り通過して、最高じゃん!ってなった時、“ギターを弾いてなくてもいいや” って気持ちになった時期があったんです。

1994年ぐらいにはレゲエ一辺倒に


―― どういうことですか?

大渡:僕、その後レゲエに向かっちゃうんですよ。きっかけは、BPMが遅いものにすごく興味を持ち始めたことです。ゆっくりなテンポに宇宙を感じるようになっちゃうんです(笑)

―― ちょっと危険な方向に行っているような…

大渡:ドープなものにワクワクしちゃうようになる。最初はブラックミュージックの一部と考えていたんですが、ボブ・マーリーを聴き始めると、ザ・ウェイラーズの他の2人、特にバニー・ウェイラーを聴いて “面白いな” と思うようになり、ルーツ系のレゲエに入っていきます。

でも、ロックやブラックミュージックほど選択肢が無いので、その後、ダンスホール・レゲエに行っちゃうんですよ。その直前にヒップホップに浸っていたこともあって、いわゆる打ち込み的な音に抵抗がなくなり、バンドじゃなくてもカッコよければなんでもいいと思うようになったんです。コンピューターライズドのレゲエも全然抵抗なく入ってきた。当時好きだったのは​​シャバ・ランクスとか、ニンジャマンとか。最初はヒップホップと同時進行で聴いていたのに、1994年ぐらいにはレゲエ一辺倒になっちゃいました。

バンドを続けるモチベーションも下がっていた1994年から1996年ぐらいまで


―― そうなってくると、バンドや生演奏というものからは大きく逸脱しているかと。

大渡:そうなんです。その時期は、楽器を演奏することに疑問を感じ始めて。楽曲を1人でリコメンドする、セレクターみたいな活動が、自分には向いているんじゃないかと思い始めました。結局、活動はしなかったんですけど、家で7インチシングルかけて聴いてるだけみたいになってくる。1994年から1996年ぐらいまでの間はそんな形で、バンドを続けるモチベーションも下がっていました。具体的にはバンドの相方が地元の公務員試験に受かって、故郷に帰ってしまい、その喪失感を埋めるものがレゲエになってしまった、みたいなことです。

―― ご自身の目指す方向性がわからなくなってきたのでしょうか。

大渡:そう、新しいメンバーも探さないし、自分が何をしたいのかわからない…。そんな時期が3年近く続きました。まだアマチュアでしたが、自分ももう引退かなと考えていた。

―― いろんな音楽に出会いすぎた、ということでしょうか。

大渡:それもあると思います。かなりの雑食だったので。でもその時期の自分の心が一番安定したのがレゲエだったんです。だから、その当時出てきたオアシスやレディオヘッド、その前のマンチェスター・サウンドなんかは全然入ってこなかった。もうレッチリでロックの完璧さを感じてしまって、その後出てきたニルヴァーナとかも、当時の僕を興奮させる要素が何ひとつなかったんです。もちろん今聴くと最高にかっこいいんですが、当時は響かなかった。多分、ブラックやファンキーな要素がないと満足できなかったのかもしれません。だから今でも、どんなにロックやブルースをやっていても、根底にファンキーなものがあるのが好きですね。

1998年、pee-ka-booとしてメジャーデビュー


―― そのスランプ期から脱却するきっかけとなったのは何だったのでしょうか。

大渡:専門学校の同期のやつがCDを出すことになって、彼へのジェラシーと共に、ミュージックビジネスへの憧れが急速に湧き上がってきたんです。そして、その彼が地方営業に行く際、“ギターが必要だから手伝ってくれ” と誘われました。お金をいただいてギターを弾く。いわばプロの仕事ですね。俺なんかでいいのか?と思いつつ、チャンスをものにしたいと積極的になりました。それがきっかけで気持ちがロックに再び向いてきて、彼の所属する事務所―― MOON CHILDがいた事務所ですが、そこに入って1998年にメジャーデビューしたんです。その事務所で、後にDo As Infinityを手がける原田淳さんと出会うことになります。原田さんは当時、エイベックスのディレクターとしてMOON CHILDを担当していました。

―― バンド名は “pee-ka-boo” ですね。

大渡:はい。1998年の1月にシングルを出して、同年の5月から7月までも3ヶ月連続で出しました。ロンドンに撮影に行ったりして、結構忙しい日々を送っていたんですが、その年の12月31日をもって契約終了になりました。結構プッシュして売り出してくれたんですが、思ったほど数字が出なかったんです。レコーディングしていた音源もオクラになりました。それで精神的にもちょっとつまづいたりして、休養が必要なくらいダメージを受けてしまった。その間は働ける状態の時にアルバイトをしつつ、自分の音楽を作っていたんですが、当時28歳だったので、まあ30歳まではとりあえずやるけれど、30歳になった瞬間に、俺はもう辞めようと思っていました。

―― プロとしてやっていくことに限界が見えてしまったのでしょうか。

大渡:モチベーションを立て直すことに自信がなくなっていたんです。一応は細々と自分の音楽をやっていくけれど、また出会いがあれば… ぐらいの気持ちでした。そんな感じでアルバイトをしながら暮らしていたら、エイベックスの伊東宏晃さんという、その後代表取締役社長も務める方から電話があって “お前、まだバンドやってんの?” と。

僕がレゲエにハマる前、バンド活動をしていた時に横浜ビブレの洋服の店でバイトしていたんですよ。その時、その店でバイヤーをやっていたのが伊藤さんでした。しばらくして転職されたのが、エイベックスの前身のホワイト・アトラスという会社。その電話をいただいた時は、小室哲哉さんやtrfのマネージャーをやっていました。

それで、“今度、浜崎あゆみの曲を作ってるやつとバンド作るんだけど、興味あるなら1回、曲を聴きに来いよ。どう思うか感想を聞かせてくれ” と言われたんです。これは何かとっかかりになるかもしれないと思い、すぐに出向いてデモテープを聞かせてもらうことになりました。そして最終的に松浦勝人さんとの面談まで漕ぎ着けたんです。

Do As Infinityは “別にバンドじゃないけどバンドでしょ?” という感覚


―― ここで遂にDo As Infinityへの道が。

大渡:でも、その面談の時に “ちょっとギター持って立って” と言われ、その姿を見て “いいんじゃない” それで決まり。弾かないんですよ(笑)。Do As Infinityは最初、Every Little Thingみたいに女性ボーカルでメンバー3人という構成で、当初から長尾大さんは決まっていたので、あとキーボードかベースを入れようとしていたんですが、メンバー探しに難航していたようで “じゃあ、もう1人もギターでいいんじゃない?” っていう感じで決まったんです。僕のことを知っていた伊東さんと、前の事務所で知り合った原田さんが推薦してくれたんでしょう。そういった意味では伊藤さんと原田さんのお二人には足を向けて眠れない。もう恩師中の恩師です。

―― そうして伴都美子さんが加わり、Do As Infinityの結成になるわけですが、ギター2人にボーカルという構成は、それまで大渡さんが経験してきた “バンド” という形態との違いに戸惑いはなかったですか。

大渡:当時のエイベックスはユニットで売り出すことが主力で、その辺はもう周知というか、“別にバンドじゃないけどバンドでしょ?” という感覚がありました。普通のスリーピースとか、そういう発想ではない。あとはテレ東のバラエティ番組『ASAYAN』からCHEMISTRYが売れたりして、もうバンドである必然性がなくなった時代でもあったんです。

次回は、30代の《人生を共にすると決めた音楽》について伴都美子が語ります。そして、大人気アニメ『犬夜叉』とのタイアップや、アルゼンチン、ブラジルなどラテンアメリカ各国での人気ぶりについても語っていただきます!

Live Information
▶ Do As Infinity 26th Anniversary LIVE

・日程:2025年10⽉3⽇(金)
・会場:LINE CUBE SHIBUYA


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