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カールスモーキー石井と映画監督・石井竜也、そして旧ジャニーズ事務所への忖度の時代に関わって……

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カールスモーキー石井と映画監督・石井竜也、そして旧ジャニーズ事務所への忖度の時代に関わって……

連載 第8回【私を映画に連れてって!】


~テレビマンの映画武者修行40年


文・写真&画像提供:河井真也

1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。

 人生は縁である。
 ある日、知人から<カールスモーキー石井>を紹介される。
<米米CLUB>の大スターであり、自分もカラオケでは「君がいるだけで」(1992)を数十回、熱唱させてもらっていた。
 初対面で、二人だけで5時間位話しただろうか。<米米CLUB>が、文化学院(美術)の仲間たちで、そもそもは映画製作を目指して結成されたとか、初めて聞く話が殆どだった。福島県との県境の茨城県北茨城市生まれで、いじめられっ子だった話とか、実家は老舗の和菓子屋、石井製菓であることや、コミックバンドとして「映画」の為に作った米米CLUBが、気が付くと大メジャーになってしまっていたとか、本来は油絵学科で画とか彫刻がメインで……など、それまでの人生を熱く語ってくれた。

 自分がいつも見ていた<カールスモーキー石井>ではなく、本名でもある石井竜也が、そこにいた。年齢も近く、自分の一つ下。凄まじいほどの映画愛。
「いじめっ子」の話から、それを「河童」に置き換えて、話は延々と続く。普段はプロデューサーである自分が喋る分量が多いのだが、その時はほぼ聞く係だ。パッション満開。やがて、既に出来ている映画『河童』のクリーチャーが登場。河童を目の前に、ストーリーが語られ始める。

「もう、ストーリーは出来ているのか……」

 終盤には、ついに「ちょっと、これ聞いてもらえますか……」

 いきなり、主題歌と思うような音楽が流れる。

「もう、主題歌まで出来てるんじゃん……」

 と、一人で感心しながら。

「河井さん、映画は僕らの夢で目標なんです!」

 何百万枚のセールスのヒット曲を生み出して来たカールスモーキー石井とは、何て謙虚でストレートな男なのだろう……と一人で頷きながらポツリと。

「やりましょう!」

「映画、やっていいんですか?」

 ただ、数万人の前で行なうコンサートに何回か行くと、そこにはカールスモーキー石井という大エンタテインメントスターがいて、自分の中では<石井竜也>と映画を作るんだ! と言い聞かせ<カールスモーキー石井>と<石井竜也>の二重人格ではないが、区別が必要な時もあった。
 それからはスター活動の合間に何十回と会い、打ち合わせを重ねて行く。
 当時、<米米CLUB>の所属していたレーベルのソニー・ミュージックや、事務所のサポートの中で、『河童』(1994)の製作はスタートした。

 何しろ映画は初めてではあるが、石井竜也はスター監督でもある。注目度は高い。
 映画『「水の旅人 侍KIDS』(1993:原作は『雨の旅人』)で、脚本も書いてもらった末谷真澄さんとの親交はあった。自分の力不足から、大きく元の脚本が変わってしまったことは申し訳ないと思っていた。
 石井竜也氏が、初対面で『河童』のストーリーを話してくれた時、何となく『水の旅人 侍KIDS』が浮かんだ。共通しているのは「小さいお侍さん」と「いじめられっ子」……マイノリティー目線で見えるものの話である。末谷さんは快諾してくれ、そこからシナリオ制作が始まる。映像は石井竜也監督の中にある。しかも彼は絵描き。どんどん画にして、具体を見せてくれる。絵コンテに近いものがある。ただ、部分的ではあるので、それを脚本家が活字としてストーリーとして紡いで行ってくれる。これは、楽しい作業だ。
 主人公の少年はオーディションだったが、主役の藤竜也さんのキャスティングは石井監督の拘りが大きかった。W竜也ではないが、自分も是非、藤さんにお願いしたかった。
 ところが、その当時、藤さんは陶芸に熱心で個展を開くところまでの域にいらした。映画出演も数年なく、石井監督とご自宅に、口説き? に行くことになった。陶芸家という芸術家に会いに行くような気持ちで、もう俳優は引退気味?! の感じも漂っていた。映画界、芸能界、大げさに言うと「社会」とも一歩距離を置いているような。

「河井さん、世間と隔絶していると、知り合いが亡くなったことも知らないことが多くてね。あとで新聞の死亡欄とかで知ったりね(たぶん、新聞もテレビも見ない生活をされていたのかと)」

 その分、<米米CLUB>の活躍や<カールスモーキー石井>の派手目な化粧もあまりご存じなく、目の前にいるのは真面目な<石井竜也>監督の姿だった。現在は、映画を中心に主役もやり、大活躍されている藤さんだが、当時はそのような感じだった。

 石井竜也監督の熱心な説明が続いたあとで

「やりましょう!」と言ってもらい、主演の藤竜也さんが決まった。

 共演の陣内孝則さん始め、監督と自分が、何度も話しながらキャストは決めて行った。<カールスモーキー石井>の初監督なので、希望する俳優が出演してくれるのかと不安もあったが杞憂だった。

 石井監督のイメージは壮大だ。『E.T.』クラスの大作になりそうで規模感が難しい企画である。初監督なので、本来はそんなに大きな予算でやるべきではないと思いながら、彼の此処までの拘りや、<米米CLUB>の活動を考えると、今を逃すと映画のチャンスは少なく、『水の旅人 侍KIDS』や『タスマニア物語』に近い8億円の制作費とした。

 CGのない時代、東宝撮影所に大きなセットを組み、人物とクリーチャーとの合成など果敢にチャレンジした。ロケの多くは監督の故郷の北茨城市で撮影した。
 結果、僕の大好きな作品になり、新人監督賞など幾つかの賞ももらえた。
 日本ヘラルドが、配給、宣伝でがんばってくれた。ただ、8億円の制作費で8億円の興行収入だと成功とは言えない。今でも僕の周りで『河童』が好きな人は多い。ただ、異業種のスターが映画監督をやった作品! と、やや先入観や偏見に近い見られ方もした。

1994年12月10日、音楽グループ米米CLUBのボーカル、カールスモーキー石井こと石井竜也の映画監督デビュー作となる『河童』が公開された。石井の思い入れもあり、<CAPPA DOCIA(カッパ ドキア)>というカンパニーを作り、プロダクションとして製作した。石井の祖父と幼少期の父親との話と、茨城県の河童伝説が元になっており、人間の親と子のきずなを、河童と少年との出会いを通して綴ったファンタジー特撮映画である。最新映像技術を駆使してのビジュアルも話題になった。出演は、陣内孝則、藤竜也、原田龍二、坂上二郎らで、ロケ地も石井の故郷である北茨城市が中心になった。クリーチャーデザインも石井が手がけている。主題歌は米米CLUBの「手紙」だった。

 それから石井竜也監督の第2作目への意欲は半端ないものになっていった。
 話を重ねながら次作映画の構想は「人魚」になった。
 遠い昔、人類(ホモ・サピエンス)は海から陸に上がった。今でも人間と人魚、その間で生きている何かがいるのではないか……彼らの生き方や恋愛とは……。
 また、壮大な話になった。
「アクエリアス(Aquariius)=ラテン語で水」と合体して「ホモ・アクエリアス」と名付け、タイトルは『ACRI』(1996公開)となった。
 今度の映画はクォリティ面でも、クォンティティ(観客数)でも『河童』を上回らなくては。原案=石井竜也。それに、お互いをリスペクトしている作家の吉本ばななさんが「ストーリーライン」を書いてくれることになった。僕は岩井俊二監督の『Love Letter』(1995 公開)を製作している時で、脚本を岩井俊二さんが、手掛けてくれることになった。
 原案=石井竜也、ストーリー=吉本ばなな、脚本=岩井俊二。理想的な布陣だ。
 4人でオーストラリアの孤島! へ行き、構想を練った。今考えると、贅沢な時間を過ごさせてもらった。『タスマニア物語』(1990)の経験もあり、オーストラリアのワーナースタジオ等の協力も得られ、ほぼ全編オーストラリア撮影になった。

 撮影監督の長谷川元吉さんら『河童』に参加してもらった数人の日本人スタッフ以外は、殆どオーストラリアのスタッフでやることになった。予算の立て方や、日々の撮影スタイル、ポストプロダクション(編集や仕上げ)もすべて現地でやることにした。ほぼハリウッドスタイルである。隣のスタジオ(部屋)には『ミッション・インポッシブル』(1996)のチームもいた。

 ここまでは、理想的な展開だったが、好事魔多し。

 一つは、シナリオだった。とても素晴らしい脚本を岩井さんが書いてくれて、印刷台本にした。ただ、「ダーウィンの進化論」など、やや科学的な箇所が多く、石井監督が描きたい「人魚の愛」的なところとは少し異なっているのかなとも感じていた。岩井さんが監督するなら問題ないな、とも。残念なことに、最後の3人の打ち合わせのあと、新たなシナリオを別の脚本家で書くことになった。のちに、岩井さんが書いたシナリオを原案に、自身が小説化し『ウォーレスの人魚』(1997/出版)のタイトルで出版もされた。

 この段階で頼れるのは『河童』を書いてくれた末谷真澄さんだ。速攻でお願いし、そこからは石井&末谷の脚本制作の日々となる。オーストラリアの撮影まで半年は切っていただろうか。撮影開始は1996年1月後半と決めていた。

 個人的には岩井俊二監督『スワロウテイル』(1996)と同時並行の製作で、此方は2月撮影スタートだった。

 もう一つの問題はキャスティングだ。

 僕は、初めてジャニーズ事務所のトップスターにオファーした。これは企画の段階から、監督の頭の中にあった。一方で、不思議な魅力があり、クォーターでもある浅野忠信さんも当初からイメージではあった。
 ただ、配給の東宝から、夏休み後半の邦画系でどうか? と有難いオファーもあり、ヒットを目指さねば、という思いも強かった。
 共演は、誰でも知っているハリウッドのスターにオファーした。これも契約を交す段階まで漕ぎつけた。ところが、撮影の1か月前、ある事情で国外に出られなくなった。この時はショックだったが、ジャニーズの俳優にも暗雲が立ち込めていた。

▲1996年8月31日公開の、石井竜也監督2作目となる映画『ACRI』。タイトル「アクリ」は、石井の曾祖母の名前から付けられたとも言われている。美術関係の仕事をしていた石井の曾祖父が戦時中に茨城に疎開して、海女だった曾祖母と出会った話と、人魚伝説の話が元になっているファンタジー映画で、前作よりさらにファンタジー色が濃い作品となっている。石井竜也のセンスが詰まった作品と言えるだろう。浅野忠信、江口洋介に加え前作に続き藤竜也が出演している。原案は石井竜也で、原作者として『LOVE LETTER』などの映画監督岩井俊二がクレジットされている。脚本は筆者とは『水の旅人 侍KIDS』、『河童』で組んだ末谷真澄が手がけている。オーストラリアで撮影され、写真は、シナリオハンティングでオーストラリアの島に行ったときのもので、左から2番目が石井。また、パンフレットには、「ACRIについて」と、作品の寄せる作家・吉本ばななのメッセージも紹介されている。

 今年、社会では「ジャニー喜多川性加害」問題が大きな出来事になった。

「性加害」に関しては犯罪であり、刑事事件マターなのでここでは言及しない。
 業界としての問題は〝忖度〟である。僕もフジテレビに在籍していたので、ほぼ実態は知っているつもりである。当時は〝忖度〟という言葉もなく、〝慣例〟で、そうなっていたと思う。
 結局、最終的には、ジャニー氏の一言「海外に1か月も行ったら悪いこと覚えてくる」で出演は無くなった。マネージャーは前向きに頑張ってくれ、本人とは衣装合わせの打ち合わせもしていた。撮影まで1か月を切っていた。

 その3か月後の1996年4月。フジテレビで、「SMAP×SMAP」がスタートする。この番組の企画段階(1995年後半)では、僕は「映画部」から異動で「編成部」におり、企画の立ち上がりから、その編成会議にも参加していたことになる。絶頂期のフジテレビで、自分も大好きな番組のひとつで、2016年12月まで続いた。

 この番組を核として<ジャニーズ事務所>への忖度はとどまることがない程、各局、映画界にも拡がっていったように思う。よく「ジャニーズ事務所の言いなり」という誌面を見るが、まさにドラマも音楽番組も、ジャニーズ事務所のタレントを中心にキャスティングして行かざるを得なくなった。それだけ、魅力のあるタレントも多く在籍したという事でもあるのだが。

 日本はアメリカなどと比べて、テレビも映画もオーディションで決まることは極めて少ない国だが、ある意味ではジャニーズ事務所のオーディションに夢を持ち、才能がある若者たちが応募して選ばれてきたということかもしれない。

 プライムタイムのドラマの主演にはコンスタントにジャニーズのタレントが一番にキャスティングされ、多くの主題歌はその関連グループが歌うことが〝慣例〟になった。

 それは「東京ラブストーリー」の「ラブ・ストーリーは突然に」(1991/小田和正)や「愛という名のもとに」の「悲しみは雪のように」(1992/浜田省吾)の決まり方とは違うのである。

 作品に相応しいキャスティングや音楽のクリエイティブ面での弊害が、「ジャニーズ問題」の最も罪作りなところだったと思う。

 個人的には、一度もジャニーズ事務所の俳優陣、アイドルとも仕事をすることが無かった。今回の事件後は、ノーマルなエージェントシステムの中で、才能のある人は活躍の場を拡げ、プロデューサーサイドとしては、役に相応しいキャスティングをしていきたい。

 とんでもない事態を救ってくれたのは浅野忠信さんと江口洋介さんだ。

 二人とは過去に一緒に仕事をしていたが、突然のオファーにびっくりしたと思う。まずは「パスポート持ってるよね?」から始まり、よく引き受けてくれたと感謝している。

 シナリオ完成も遅れてしまい、本当に準備も無く、二人にはオーストラリアに行ってもらった。先乗りしていた藤竜也さんも、ハリウッドスターが来る? と思っていらしたので驚かれたであろう。藤竜也さんには『河童』に続いて出演してもらった。英語が堪能でもある藤さんには様々な面で助けていただいた。

 素晴らしい企画のスタートだったが、途中からアクシデントの連続だった。

 僕は、撮影を延ばした方が良いと考えたが、事務所の社長としては、「ここで撮影が出来ないと米米CLUBのスケジュールを考えれば数年先になるので……」と、何とかこのスケジュールでやってほしいとの事だった。

 撮影は、ほぼ外国人のチームの中で、上手く進んだ。ほぼ、スケジュール通りにいったが、元々、製作コストは高く、興行のハードルは高かった。

 評価をしてくれた人もいたが、興行的には『河童』にも届かなかった。プロデューサーとしては申し訳ない気持ちが強かった。僕は、本当に石井竜也監督はよくやったと思う。まだ2作目で、ここまでの大作を作り上げた。

▲『河童』でも『ACRI』でも、台本、パンフレット、写真集など、すべてを石井竜也がデザインしている。両作品とも、何百枚にもさる絵コンテも自ら描いていた。

 あれから、27年が過ぎた。実は、今でも石井監督とは時々会っている。勿論3作目のトライだ。ただ、『ACRI』のあと、事務所は解散状態になり、<米米CLUB>も一度解散になったりした。映画も一つの要因であることは感じていたので、此方から映画の話は持ちかけられなかった。ただ、何年かして会うようになり、この数年は、幾つもの企画の話をしている。

 映画での本当の石井竜也さんの才能、実力はもっと高いところにある。何とか、それを引き出すのがプロデューサーの役割であり、彼が望むなら、こちらも駆けつけたいと思う。

 1996年8月公開『ACRI』そして、9月公開『スワロウテイル』。

 プロデューサーの思惑通りに行かないのが「映画」というものなのか……。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。

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