「屁」が原因で殺された戦国武将がいた?放屁が招いた悲劇の伝承
「屁」とは、腸内で生じたガスが肛門から排出されたものである。
いわば単なる生理現象にすぎない。
だが、その強烈な悪臭ゆえか、人前で放屁することは古来より恥とされ、忌避されてきた。
歴史に目を向けても、放屁が発端となり社会的地位を失った者や、ついには命を落とした人物さえ存在する。
神話や伝承の世界においても、烈しい放屁によって人を苦しめる怪異の逸話が数多く残されている。
今回は、そんな放屁にまつわる香ばしい逸話について紹介していきたい。
屁の逆恨みで死亡!?
「屁」が原因で、悲劇的な最期を迎えた人物として、千葉邦胤(ちば くにたね 1557〜1585)が挙げられる。
邦胤は下総国(現在の千葉県北部〜茨城県南西部)を治めた名族・千葉氏の第29代当主であり、勇猛果断の武将として知られた。
織田信長の命令すら拒んだと伝わるほどの反骨精神を持ち、気性の激しい人物であったという。
天正13年(1585)の正月、千葉氏の拠点である本佐倉城(史料によっては佐倉城とする説もある)で、邦胤は家臣たちと祝賀の宴を催していた。
ところが、配膳を担当していた若侍・鍬田万五郎(孫五郎とも)が、祝いの席にもかかわらず突然盛大に放屁し、祝宴の空気を一瞬にして壊してしまった。
それも1回ではなく、立て続けに2回であったという。
この無礼に邦胤は激怒し、万五郎を厳しく叱責した。
しかし万五郎は反省するどころか逆上し、邦胤に口答えして場を混乱させたため、邦胤は無礼打ちに処そうとした。
家臣の制止によって血を見る事態は避けられ、邦胤は最終的に万五郎の不始末を寛大に許したと伝わる。
しかし万五郎の恨みは消えていなかった。
4か月後の5月1日、彼は夜陰に乗じて邦胤の寝所に忍び込み、短刀で深手を負わせた。
邦胤は、数日後に息絶えたとされる。
その後、万五郎は自害したとも、捕縛され処刑されたとも伝わる。
当主を失った千葉氏の家中は動揺し、勢力は急速に衰えた。
やがて千葉氏は北条氏の支配下に組み込まれ、独立した勢力としての命運を終えることとなる。
屁をこかれ殺された暗君
屁を浴びせられたあげく抹殺された統治者として、古代エジプト第26王朝の王・アプリエス(前589〜570)がいる。
アプリエスは治世の中で軍事的失策を重ね、次第に民衆や兵士たちからの信頼を失っていった人物として知られる。
紀元前570年頃、リビア人とギリシャ人(キュレネ)の争いが勃発すると、アプリエスはリビア側を支援すべくエジプト軍を派遣した。
しかし遠征軍はギリシャ兵に大敗し、多くの兵を失った。
この惨敗をきっかけに、エジプト兵の間では「王は自分たちを死地に追いやった」との不信と怒りが爆発し、反乱へと発展する。
反乱軍は、有能な軍人として名高かったアマシス(前570〜前526)を新たな指導者として擁立した。
歴史家ヘロトドスの『歴史』によれば、アプリエスは使者を派遣し、反乱軍に服従を求めたという。
ところがアマシスは使者の前で尻を向け、渾身の放屁を浴びせて「この屁を王に届けよ」と嘲ったと記されている。
この侮辱的な振る舞いによって、両者の対立は決定的となった。
その後、アプリエスは反乱軍との戦いに敗れ、捕らえられて殺害された。
憤激した民衆によって絞め殺されたとも、反乱軍の手により処刑されたとも伝わる。
失政の積み重ねによる統治崩壊の末、アプリエスの命はまさに「風前の灯火」ならぬ「プゥ前の灯火」であったといえるだろう。
屁をこいて予言!?恐るべき老婆の怪異
放屁を武器とする怪異といえば、北海道のアイヌに伝わるオッケルイペが知られる。(参考 : https://kusanomido.com/study/fushigi/story/101712/)
凄まじい悪臭を放つ屁を無尽蔵に噴き出し、人を苦しめる忌まわしい怪物とされる。
一方、江戸時代の越中国(富山県)には、スカ屁と呼ばれる奇妙な怪人が現れたという伝承が残る。
当時の瓦版(新聞のような印刷物)に描かれた姿は、全身真っ黒な老婆が四つん這いになり、尻から猛烈な放屁を浴びせているというもので、実に珍妙きわまりない造形であった。
瓦版によれば、越中の「尻が洞」と呼ばれる洞穴の裂け目から、この老婆は突如として這い出てきた。その場に居合わせた肥やし取り(便所の汲み取りを生業とした者)に向かって、老婆はこう宣告したとされる。
4〜5年のうちに「おなら病」なる奇病が流行する。この病には屁止めの薬も効かず、世はまさに手に汗握り屁となろう
老婆はさらに続けて、
だがワシの似顔絵を持っておけば「おなら病」に罹ることはなく、ついでに家内安全・健康長寿も約束されるであろう
などと根拠不明の妄言を言い残し、いずこかへ去っていったという。
この怪人スカ屁は、流行病を予言し、その写し絵を護符として売り捌いたとされる妖怪「クタベ」の露骨なパロディであると考えられている。
クタベは越中国に現れたとされる人面の獣であり、流行病の到来を予言し、自らの写し絵を携えれば病を免れると布告したと、当時の瓦版に記されている。
一説には、このクタベそのものが瓦版業者による創作であり、護符としての写し絵を売り込むために仕立て上げられた怪物であったともいわれる。
江戸時代には、コレラ・天然痘・ペストといった致死性の疫病が繰り返し流行し、人々は不安に駆られてあらゆる救いに縋ろうとした。
恐怖を煽る瓦版は飛ぶように売れ、クタベの絵は護符として大量に求められたと伝わる。
こうした営利的な瓦版商人と、流行病の恐怖に翻弄される民衆を風刺するために生み出されたのが、スカ屁という怪人であった。
放屁という極端な滑稽さをまとわせることで、病と噂に惑わされる社会そのものを嘲る意図があったのだろう。
このように、放屁という取るに足らぬ生理現象も、人の感情や権力が絡み合うと、時に命運を左右し、社会を動かし、さらには怪異の物語さえ生み出してきたのである。
参考 :『千学集抄』『歴史(Histories)』
文 / 草の実堂編集部