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なぜ世田谷区はアーティストの街になったか。その3「世田谷美術館」で開催中の「美術家たちの沿線物語 小田急線篇」で腑に落ちた!

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なぜ世田谷区はアーティストの街になったか。その3「世田谷美術館」で開催中の「美術家たちの沿線物語 小田急線篇」で腑に落ちた!

■ 梅が丘駅から世田谷代田駅あたり

 梅ケ丘駅は、小田原線の開通から7年後の1934年(昭和9)に設置された駅。この駅は、山手線の外側に計画された〈第2山手線〉ともいわれる環状線、東京山手急行電鉄との接続駅にもなる予定だった。小田急の社長でもある利光鶴松がこの電鉄の社長を務め、大井町駅を起点に武蔵小山、梅ケ丘、明大前とつづき、中野、江古田、板橋、田端、北千住、大島、砂町を通って洲崎 (江東区東陽町1丁目)へとつなげる構想だったが、日中戦争など時局の悪化で実現せず、幻の路線となったという。

 梅ケ丘駅が開業した年、結婚を機にこの町に新居を構えたのが洋画家・小堀四郎(1902-1998)と小堀杏奴(1909-1998)。杏奴は森鴎外の次女で、後に『晩年の父』で作家としてデビュー。四郎は東京美術学校の恩師・藤島武二の教えを心に刻み、団体に所属せず、作品を売らず、孤高の創作活動をつづけた。杏奴は原稿の執筆で夫を支えたのである。

 梅ケ丘駅近くにはまた、”日本のシャルダン“の異名をとり、静物画を中心に独自の写実表現を追求した洋画家の後藤禎二(1903-1970)が住んだ。息子の後藤九(1932-2017)は、商業写真やカメラ雑誌の仕事の一方で、父・禎二のようなひたむきさで、イタリア・ジェンツァーノの花祭りを長年写したほか、世田谷区内の日々の風景を撮りつづけた。

 つづく世田谷代田駅は開通当初、世田ケ谷中原駅として開業。代田は作曲家の古関裕而が長く住んだ地でもあり、この付近には戦後間もない1946(昭和21)年から7年ほど、若き日の武満徹(1930-1996)が住でいた。瀧口修造との出会いにより、美術家、写真家、作曲家、演奏家などからなるインタージャンルの創作集団「実験工房」のメンバーとして作曲活動をはじめた時期にあたる。また、この近くには、詩人・萩原朔太郎が1933年(昭和8)に家を建 て、終の住処とした。朔太郎の孫にあたる萩原朔美(1946-)は、寺山修司主宰の劇団・天井棧敷を退団したのち、自宅を“ウメスタ”と称し、榎本了壱(1947-)、安藤紘平(1944-)、山崎博(1946-2017)、かわなかのぶひろ(1946-)ら仲間たちと個人映画の制作を始めている。萩原の定点観測の手法はこの時点から始まったようだ。

■ 下北沢駅から東北沢駅あたり
 区内有数の商業地として知られる下北沢は、小田急線開通から6年後の1933年(昭和8)に帝都線(現在の井の頭線)が開業すると、新宿と渋谷のどちらにも足を運びやすくなり、駅周辺は急速に開発が進んだ。千歳船橋付近に住んだ洋画家・池辺一郎(1905-1986)は、1940年頃の下北沢市場のにぎわいをスケッチしている。下北沢駅周辺は、起伏に富んだ複雑な地形で、無数の狭い街路が入り組んでいるため大型の商業施設がなく、古着屋やライブハウス、飲食店など、小規模の店舗がひしめくように並ぶ。また、1980年代になると下北沢は、”演劇の街”としても知られるようになる。新東宝の俳優だった実業家の本多一夫(1934-)は、役者志望の若者たちのためにと、1980年代初頭にアパートの2階部分を改装した小劇場のザ・スズナリ、そして本多劇場を開場し、夢の遊眠社や東京乾電池をはじめ、多くの劇団が利用した。近年、下北沢は駅の地下化にともなう街の再開発が進み、着工を間近に控えた2000年代初めには、下北沢を舞台にゆかりの俳優たちが多数出演した映画『ざわざわ下北沢』(監督:市川準、2000年)や、『男はソレを我慢できない』(監督:信藤三雄、2006年)が制作された。下北沢駅近くに早い時期に住んだ作家では、南画家の大山魯牛(1902-1995)と石川寒巌(1890-1936)がいた。昭和初期に日本南画院の新鋭として活躍したふたりは、小田急線開通と同時に、そろって下北沢に居を定めた。世田谷区松原に居を構えた日本画家・岸浪百岬居が幹事を務める画家・小杉放菴主宰の老荘会にも参加し、文化人同士の交流を深めた。このほか、下北沢駅近くに住んだ彫刻家の山本常一(1910-1994)は、戦前の東宝で特撮のミニチュア制作も手がけた。同じく下北沢駅近くには彫刻家・淀井敏夫(1911-2002)も長らく住んでいた。敏夫の長女・淀井彩子(1943-)と次女・淀井由利子(1949-)は、ともに画家として活動中である。また、長年駅前に事務所を構え、著名人をカメラに収めた写真家の淺井愼平(1937-)の作品も紹介されている。東北沢駅界隈では、北沢で生まれ育ったイラストレーターの矢吹申彦(1944-2022)や、かつて在住した画家の野田裕示(1952-)の紹介もある。

伊原宇三郎《トーキー撮影風景》1933年 世田谷美術館蔵

■ 代々木上原駅あたりから新宿駅まで
 代々木上原駅から新宿駅に向かう、代々木八幡駅、参宮橋駅、南新宿駅の区間は、渋谷区。小田急の鉄道が敷かれる以前から、この渋谷区代々木を中心とした武蔵野の一帯は宅地としての造成がはじまり、菱田春草 (1874-1911)や岸田劉生 (1891-1929)など、明治から大正、昭和初期にかけて活躍した美術家たちが多く住んだ。岸田の代表作のひとつである《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年、東京国立近代美術館蔵、重要文化財)には、いままさに造成中の宅地が描かれている。

 新宿は、江戸時代から甲州街道の宿場町だった。1885年(明治18)、日本鉄道が品川線内藤新宿駅を開業。品川から池袋を経由して赤羽を結ぶこの品川線は、後に国営化され、現在のJR山手線の原型となった。1923年(大正12)の関東大震災の後、復興していく新しい東京のなかで、新宿はめざましく発展した。本展のプロローグでも記した「東京行進曲」の「いっそ小田急で逃げましょか」の歌詞のつづきは、「かわる新宿 あの武蔵野の 月もデパートの 屋根に出る」とあるように、1926年(大正15)に百貨店のほてい屋が新宿三丁目に開店したのをはじめ、伊勢丹、三越などが次々に建ち、デパートを中心とした一大商業地となった。この発展に大きく寄与したのが、小田急を含め、官営、私鉄の鉄道各社による鉄道網の発達で1931年(昭和6)には、この時すでに新宿駅は東京駅を抜いて乗降客数で日本一を記録。1960年(昭和35)には、新宿副都心化計画が発表され、新宿駅西側の開発が進む。新宿駅西口広場 (1966年)を設計した建築家・坂倉準三 (1901-1969)は、小田急百貨店新宿本店も手がけた。また、広大な淀橋浄水場の跡には、1971年(昭和46)の京王プラザホテル(設計:日本設計)が建ち、その後も超高層ビルが群立した。1990年(平成2)には丹下健三 (1913-2005)の設計による東京都庁舎が有楽町から移転。世田谷美術館では開館当初に「街をさぐる」という連続講座を開いて、多くの写真家を講師に招き、東京をテーマにした写真を多く収蔵してきた。ここでは、桑原甲子雄(1913-2007)、師岡宏次(1914-1991)、高梨豊(1935-)、荒木経惟(1940-)、そして奈良原一高(1931-2020)がそれぞれに捉えた、代々木および新宿の風景を、当館のコレクションから公開している。

(本稿は世田谷美術館発行のガイドブックを参照)

本展には、本稿の名前をあげていない作家や写真家の作品や、世田谷文学館、世田谷区立郷土資料館の資料も加え展示されている。実に多くの美術家たちが小田急線沿線の地を愛したか改めて気づくのではないだろうか。

「美術家たちの沿線物語 小田急線篇」は、世田谷美術館にて、2024年4月7日(日)まで開催。毎週月曜日休館。10:00~18:00まで(最終入館17:30)

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