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名門野球部で教わったこと、大病して学んだこと、全てが今につながる【株式会社2peace・大塚拓馬代表取締役社長】

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株式会社2peaceの大塚拓馬代表取締役社長

人材紹介・人材派遣などを事業とする株式会社2peace(大阪市)の大塚拓馬代表取締役社長は京都の名門・龍谷大平安高校野球部出身。厳しい練習や上級生からの「しごき」にも耐え、名将・原田英彦監督の下で甲子園の土を踏みました。しかし、大学卒業後、就職して1年も経たないうちに脳腫瘍が発覚。大手術を乗り越えて会社を立ち上げ、波乱万丈の人生から学んだことを仕事に活かしています。


【ゲスト】

株式会社2peace

大塚拓馬代表取締役社長

1991年5月9日、京都府出身。小学校2年から野球を始め、龍谷大平安高校3年時に夏の甲子園出場し、背番号16でベンチ入り。びわこ成蹊スポーツ大学でも京滋リーグ選抜に選ばれるなど捕手として活躍した。卒業後、社会人1年目で脳腫瘍が発覚。手術を乗り越えて2018年7月に株式会社2peaceを創業。

■龍谷大平安高校1年春からベンチ入りして上級生から「しごき」

――学生時代は野球に打ち込まれたそうですね。

大塚:小学校2年から大学卒業までずっと野球をやっていました。2歳上の兄についていって地元の金閣リトルタイガースに入ったのが最初です。入る前から父とキャッチボールしてたんで周りよりうまかったし、目立つのが好きだったんで楽しかったですね。本職はキャッチャーでしたが、ピッチャーもやっていました。

――中学では軟式野球部に入部されました。

大塚:強いチームでありませんでしたが、キャッチャーを中心に内外野全てのポジションを守りました。当時は足が速いだけでなんとかなったんです(笑)。打順は3番か4番。最後の方はちょうどメジャーリーグで2番最強説が謳われていた頃だったので2番でした。

――当時は有名だったんですか?

大塚:世代の京都ナンバーワン捕手という評価をいただいていたので、平安高校(現龍谷大平安)の原田英彦監督が京都府の大会に見に来てくれたんです。その試合で確か、レフトオーバーを2本くらい打ったと思います。それで試合後に「セレクションを受けてみないか」と声をかけていただきました。

――名門の平安から声がかかるだけでも光栄ですよね。

大塚:でも、当時は高校野球にあまり関心がなく甲子園なんて夢物語だと思っていたんで、平安のことをよく知らなかったんです。2つ上の憧れの先輩が進学していた京都外大西に行くつもりだったんですが、その前に原田監督に声をかけられたんでセレクションを受けました。

――セレクションはどんなメニューだったんですか?

大塚:その日はキャッチャーだけで僕を含めて4人いました。先輩部員に交じって一緒に練習したんですが、アップが長くて、それだけでヘトヘトになりましたね。その後、50メートル走、遠投、フリー打撃、シートノックをやったんですが、自信があった守備を評価していただいて、その場で「平安に来ないか」と誘われました。

――その場で誘われるなんて凄いですね。

大塚:でも、怖そうな先輩がいっぱいいたんで、こんなところでできないと思ったんです。先輩は怖いし、練習はきついし、3年間できないと親に言ったんですが、父から平安に行けと言われて結局、平安に誘導されました(笑)。

――実際に入ってどうだったんですか?

大塚:後悔の連続でした。毎日、授業中に「辞めたい」と紙に書いてました。というのも、1年の春からベンチ入りしたんですが、2年生を差し置いて選ばれたんで、しごきの対象になったんです。それで一時、学校に行かなくなったんですが、原田監督が家まで来てくださって「戻ってこい」と説得されました。それで戻ったんですが、しごきはその後も1年くらい続きました。

――よく辞めずに続けましたね。

大塚:いじめられたくらいで辞めるのは格好悪いと思ったんです。親の期待があって、友達からも背中を押してもらったんで、何があっても辞めないと覚悟を決めて戻りましたからね。

原田英彦監督と大塚拓馬氏・本人提供

■甲子園出場も中京大中京に初戦敗退……骨折して試合に出られず

――平安高校でもキャッチャーだったんですか?

大塚:智弁和歌山から阪神に行った橋本良平選手の弟(貴弘)が同級生だったんです。僕らの代が3年生になった時のキャプテンで、橋本もキャッチャーだったんで、いいライバルでした。身体能力は高いし、パワーもあって、ずっと競い合ってましたね。

――最後の夏はどちらが出たんですか?

大塚:3年生の時はキャッチャーとして入れ替わりでどちらも使ってもらったんですが、一時は僕が正捕手で橋本がファーストでした。でも、最後の夏前に僕が右手首を粉砕骨折したんです。それで試合に出られなくなって、結局また橋本がキャッチャーに戻りました。右手首は今も治ってなくて、骨は固まってるので痛みはありませんがバラバラの状態です。

――チームとしてはどこまで行ったんですか?

大塚:京都大会は準決勝まで大勝で勝ち上がり、決勝はその年春のセンバツに出ていた福知山成美にサヨナラ勝ちしました。僕は背番号16でベンチ入りしていましたが、高校野球で良い思い出はその試合くらいですね。甲子園では堂林翔太を擁して優勝した中京大中京に1回戦で負けました。めちゃくちゃ強かったです。

――負けた時の心境は?

大塚:もちろん、悔しいのが一番でしたけど、やっと終わったかという感じもありました。やっと終わったという達成感と脱力感ですね。

――甲子園の土は持って帰ったんですか?

大塚:土は持って帰りませんでした。土を取るタイミングはあったんですけど、橋本が帰るぞと言って、そのままです。実は平安高校のグラウンドは甲子園と同じ土なんで、「一緒の土やし、いらんやろ」と(笑)。

平安高校時代の大塚拓馬氏・本人提供

■則本昂大の剛球に驚いた大学時代

――大学は滋賀県にあるびわこ成蹊スポーツ大学に進学されました。

大塚:いくつか声をかけていただいてましたが、体育の教員になりたかったので、びわこ成蹊に入りました。当時は京滋大学リーグ1部で、1年春からキャッチャーのレギュラーとして出ていました。ただ、2年になって元ヤクルトの本郷宏樹監督(現龍谷大学監督)に代わってから外されてしまいました。

――監督によって選手の起用法も違いますからね。

大塚:その時、2部に落ちたこともあって、若気の至りなんですが「こんな弱いチームでやってられへん」と監督に言ったんです。本気ではありませんでしたが、「僕、辞めます」と言って練習放棄しました。それで当時起用されていたキャッチャーと実力勝負することになり、好成績を残して再びレギュラーに戻りました。

――大学時代で印象に残っている試合はありますか?

大塚:4年の時に京滋選抜に選ばれて三重県の選抜チームと試合をしたんですが、その時の相手投手が楽天の則本昂大投手(当時三重中京大)です。150キロを当たり前に出すんで速すぎて誰も打てませんでした。

びわこ成蹊スポーツ大学時代の大塚拓馬氏・本人提供


■就職した年に発覚した脳腫瘍

――大学卒業後は就職されたんですか?

大塚:教員免許を取ってたんで教員も選択肢にあったんですが、独立したい気持ちもあったんで、就職サイトの検索キーワードに「社長」と入れたら1件だけヒットしたんです。それが京都に本社がある呉服屋で、説明会に行ったら専務が平安の先輩だったこともあって野球の話で盛り上がり採用されました。配属は大阪の心斎橋店で来客対応をしていました。

――社会人生活は順調だったんですか?

大塚:それが大変でした。元々、高校の頃から片頭痛持ちで月1回くらい、頭が割れるかと思うほど痛くなっていたんですが、それが段々ひどくなり、入社半年経った頃には1週間に1回か2回くらいのペースになったんです。社会人になって慣れない環境でストレスもあったんで片頭痛だと思っていたんですが、最終的には毎日痛くて血を吐くようになりました。それで当時付き合っていた彼女が、今の妻なんですけど、病院に付き合ってくれました。検査を受けると「脳に影がある」と言われまして……。脳腫瘍でした。23歳の時です。

――えっ、それはショックどころじゃないですね……。

大塚:そこから病院を転々として、最後は埼玉の病院で診てもらいました。脳腫瘍だけど、手術するのが難しい場所で、まだ腫瘍が小さかったので「このサイズなら摘出しなくてもいい」と言われて、薬で症状を抑えながら1年間、様子を見ることになりました。

――当時は辛かったでしょう。

大塚:結果的に1年で2倍くらいの大きさになっていたんで、緊急手術を受けることになりました。その頃すでに結婚していたんですが、妻はショックで気を失いました。しかも、手術したら左半身が麻痺して車椅子生活になるかも知れないと言われたんです。車椅子を押してもらうのは申し訳ないので離婚して別れようと言ったんですけど、妻は「押すよ」と言ってくれたんで、手術を受ける決断ができました。手術した時は25歳でした。

――奥様の心労も相当だったと思います。

大塚:僕も鬱状態だったので、どうやって自殺しようかと考えたこともありました。周りに迷惑をかけたくないんで、ネットで自殺方法を調べたりしましたね。脳腫瘍が見つかってから手術するまでの約2年は本当に長かったです。

■仕事に活きている大病の経験と原田監督の教え

――手術は無事成功したんですね。

大塚:今は日常生活に支障はないんですが、昔の記憶があまりないんですよ。腫瘍を摘出した部分が記憶をつかさどるところだったんで、インパクトのあったこと以外は忘れてることも多いです。

――そこから起業されたんですね。

大塚:脳腫瘍と分かってから呉服屋は辞めて飲食店で働いていた時期もあったんですが、転職活動をしても、脳腫瘍という爆弾を抱えている人間を雇ってくれる会社はありませんでした。それで人材紹介を思いついたんです。元々独立願望があって、会社を経営している義父から背中を押されたこともあり、2018年7月に会社を立ち上げました。

――一から会社を立ち上げるのは大変だったと思います。

大塚:名刺の切り方すら知りませんでしたからね。営業もやったことがないし、最初は見よう見まねでした。

――大病した経験は活きていますか?

大塚:めちゃくちゃ活きてますね。怖いものがなくなりました。普通は失敗を恐れたりしますが、一回死んでるみたいな感覚なんです。リスクを深く捉えないんで、決断が早くなったし、即断即決です。あれ以上にしんどいことはないと思えるんで、死んでもいいやくらいの感覚です。

――野球から学んだことも活きていると思います。

大塚:原田監督から教わったのは、努力を努力と思わないことです。野球をうまくなりたいなら練習して当たり前。それを努力とは言わない。それを努力と認識しているうちは伸びない。そして、努力は人が見てないところでやることで、監督の前でやるのはアピールだと。全て仕事でも同じだと思います。上司の目があるからやるとかじゃなく、それ以上のことをして初めて努力と呼ぶんです。

――原田監督とは今も親交があるんですか?

大塚:ありますよ。平安高校の事務局職員の大半はうちから派遣しています。病気をした時も心配していただきました。手術した後すぐに毎年恒例のOB戦に呼んでいただいて、一番に駆け寄って「大丈夫か」と言われました。さすがに試合には出られませんでしたが、励ましていただいて嬉しかったです。本当は手術後1カ月入院と言われたんですが、「2週間後に友達の結婚式があるから2週間にしてください。その代わりリハビリを2倍頑張ります」と言って2週間で退院し、結婚式に行って、OB戦にも行きました。

――野球部時代のお友達の結婚式ですか?

大塚:大学時代の野球部の友達の結婚式です。病気をしたからこそ余計に人のご縁は大切にしないといけないと思いますね。

――大病を経験したからこそ社員の方々に伝えていることはありますか?

大塚:しんどい時は休んでと言ってます。やっぱり体が一番、健康第一ですからね。あとは家族を大事に過ごしてほしいとも言っています。例えば参観日とか、仕事を休んでもいいから行ってほしい。家族を大切にするために仕事をしてるんで、優先順位をしっかり持って、周りを大切にする人間になってほしいですね。

本人提供

記事:SPAIA編集部 請川公一

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