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矢野顕子『さとがえるコンサート2020』、25回目にしてその魅力をあらためて実感した一夜

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矢野顕子 撮影=三浦憲治

矢野顕子『さとがえるコンサート2020』
2020.12.13(SUN)NHKホール

いつもなら幻想的な光景を作り出す通称「青の洞窟」、代々木公園のケヤキ並木の夜を彩るイルミネーションはなく、近くのフットサル場から聞こえてくる声が少し寂しく響く。25回目の『さとがえるコンサート』を迎えたNHKホール前は、これまでのどの“さとがえる”よりも静かだった。

が、席につくと、いつものように静かな熱気がホールを埋めている。
定刻、万感の拍手が沸き起こり、まず3人のメンバー、佐橋佳幸、林立夫、そして小原礼が登場。続いて鮮やかな黄色の衣装をまとった矢野顕子がステージに現れる。大袈裟な身振りで矢野がメンバーへの更なる拍手を促した後、それぞれの位置につき、演奏が始まった。

黄色い衣装はそのためでもあるまいが、1曲目はバナナの歌だ。そして、2曲目も食べ物の歌。聴衆の心の空腹がおさまったところで、また長い拍手。矢野も、感慨深そうにそれを聞いている。

コンサートを開くということ、あるいはコンサートに出かけるということから不本意ながら遠ざけられていた人たちが、その間の苦労を無言のうちにねぎらい合い、再会を喜ぶ時間が持たれた後で、そうしたちょっとウェットな感情を振り払うように、今度はカエルの歌。確かに、カエルに《どうにかなるさ》と言われたら、笑い合うしかない。そして、つぶれた目玉焼きを笑い飛ばすくらいの気持ちになった頃には、もうコロナ禍を逃れて、会場はすっかり矢野的世界になっていた。

続く「愛を告げる小鳥」は新曲。間奏にエレピによるソロがあり、エンディングにも長いピアノソロが入る。が、そのソロに絡んでいくメンバー3人の、リズムを編み合わせるような演奏が濃密で、だからもし自分が照明の担当なら誰にスポットライトを当てればいいのか困ってしまい、結局はステージ全体を照らすしかないと思わせてしまうような、つまりは4人のアンサンブルの素晴らしさにハマり込んでしまった。そして、その名の通り、小春日を往くような小原のウォーキングベースが心地良い「春咲小紅」にウキウキした後、この日の最初のクライマックスがやってきた。

一転、抑えた調子のベースから始まり、抜き差しならない感じの長い前奏の末に矢野が歌い始めると、それが山下達郎の「Paper Doll」だと知れる。最初の1コーラスで主人公の男性のやるせない思いが語られると、その思いを代弁するように佐橋がエレキギターをかき鳴らす。山下との共演経験も長い佐橋は、山下のボーカルに勝るとも劣らない情感豊かなギターワークでこの曲のドラマ性を増幅させるのだ。2コーラス目の歌に続く矢野のピアノソロは佐橋が描き出した感情への回答のようでもあり、更なる深みへの悪魔的な誘いのようにも聞こえる。その背景にあるのは、非常な時の流れのように刻まれる林と小原のビートだ。果たしてその恋の行方は?と思わせたところで、上質なサスペンスドラマのようなその演奏は終わってしまうのだ。そうしてクールな緊張感から解放された聴衆は、矢野の弾き語りによる“祈り”を耳にすることになる。ある意味では、ここまでが、この日のステージの第1部ということになるのだろう。

再び登場した3人のメンバーを紹介した矢野が「私も聴衆として楽しみます」と言い残していったん退場し、始まったのは3人の演奏で聴かせるインストゥルメンタルナンバー。「H.O.S.」というタイトルはおそらくは3人の頭文字だが、それ以外のタイトルはないなと思わせる、この3人だからこそのセッション感と構築美を兼ね備えた1曲だった。

白の衣装に着替えた矢野が再び登場し、ステージは後半へ。
新曲「大家さんと僕」でブラシスティックを使った林のスティックワークを見ていると、ブラシを使うことをドラマーたちがしばしば“焼きそばを焼く”と形容することを思い出した。林が焼きそばを作れば、さぞかし美味しい焼きそばができるだろうと思わせるスティックワークだったからだ。さらに言えば、「また会おね」の冒頭、林が刻むハイハットはスイス製の古い手巻き時計の音のようだった。同じタイムを刻んでいるのに、何かの予感を含んでいるのだ。

そして、矢野が「矢野がやれば矢野の歌。このアレンジを気に入っています」と話して披露した「津軽海峡・冬景色」。それは、例えばロキシー・ミュージックの何かの曲のように、ここではないどこか、今ではないいつかだけれど、でもきっとある世界を描き出してみせた。それは、宇宙のことを歌った「When We’re in Space」から、「新宿区あたりのことを歌った」と矢野自身が解説した「大家さんと僕」までの距離よりもはるかに遠い、そしてはるかに長い音楽の旅を感じさせてくれるものだった。

その先に用意されていたのはやはり食べ物の歌で、その先に願うものは「ひとつだけ」。
アンコールに応えた後、満場の拍手に手をつないで応えるために、ステージ上の4人がちょっとおどけた調子で手袋をはめるあたりで、矢野的世界に現実の世界が染み込んできた。しかし、約2時間前の自分とは違う。音楽の力を得て、現実の世界と立ち向かえばフットサル場から響く声も違って聞こえる。
25回目にして、『さとがえるコンサート』の魅力をあらためて実感した夜だった。

取材・文=兼田達矢 撮影=三浦憲治

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