14歳でデビュー、15歳で紅白歌合戦初出場、24歳で日本レコード大賞 最優秀歌唱賞受賞の森昌子、「越冬つばめ」は歌手としての覚悟ができた曲だった
シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤
昨年の紅白歌合戦で天童よしみが、「道頓堀人情」を歌い終わったころだった。
「今年も森昌子は出ないわね。紅白で歌う姿をもう一度みたいわ」と、みかんの皮をむきながら母がつぶやいた。
母は、森昌子の長年のファンだ。特に好きなのが、「哀しみ本線日本海」と「越冬つばめ」である。「ヒュールリー、ヒュールリー、ララ」と鼻歌交じりで、家事をする姿はとても生き生きしていた。そんな母の何回目かの誕生日、「越冬つばめ」のドーナツ盤を贈ったこともあった。紅白歌合戦で、森昌子が紅組の司会をして優勝したときも、トリで涙を流しながら歌う姿にも母はもらい泣きしていた。母だけではない、父も私も涙が潤んでいた。
森昌子は、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」に出場し、都はるみの「涙の連絡船」を歌って初代グランドチャンピオンになった。司会の萩本欣一に肩をたたかれ「昌子ちゃん、よかったねー」という言葉をかけられると泣き出してしまうような、真ん丸の目が印象的な13歳のあどけない少女だった。
太陽のように明るく、元気な女の子というイメージを抱いていたが、自身の著書『明日へ』(幻冬舎)、『母親力 息子を「メシが食える男」に育てる』(SB新書)を読むと、それは覆された。ひとりっ子で内気、母親が病弱で祖父母に育てられた昌子は、音楽好きな父親に3、4歳の頃から美空ひばり、畠山みどり、島倉千代子らの歌謡曲を歌わされていた。父は娘を歌手にしようなどという下心があったわけではない、娘に何か楽しみを与えなければいけないという親心からだった。小学校でも昌子の歌は評判になっていったが、むしろ苦痛だったという。父の仕事の関係で宇都宮から東京の小学校に転校したものの、なかなか馴染めず脱毛症になってしまうほど気弱だった。けれどもそれを克服したのが得意な走ることだった。将来は体育の先生になることを夢見る少女だったのだ。
昌子が中学1年生の夏休みが終わったころ、10月から「スタ誕」が始まることを叔母がどこからか聞きつけて来た。自分とは無縁の世界と思って聞き流していた昌子だが、「洋服を買ってあげる」という叔母の言葉に乗せられ有楽町そごうへ行くと、そのまま「スタ誕」の予選会場へ行くことになってしまったのだ。叔母も昌子の引っ込み思案な性格を何とかしたいと、人前で歌うことで何かの役に立つのではと考えたという。森昌子の歌う姿を見て追うように「スタ誕」に応募したのが桜田淳子や山口百恵だった。もし叔母の無理強いがなければ、桜田淳子も山口百恵も歌手になっていなかったかもしれない。人生とは面白いものだ。
学校へ通えることを条件に所属事務所はホリプロに決まり、阿久悠作詞、遠藤実作曲による「せんせい」でデビューが決まった。この時点で学園三部作の「せんせい」「同級生」「中学三年生」が全て完成しており、遠藤実の家でレッスンが始まるのだった。女性最年少の15歳で紅白歌合出場(当時)、新宿コマ劇場で史上最年少座長として「森昌子公演」を行ったのは21歳のときだった。突然敷かれてしまったレールの上を「森昌子を演じる」ことで続けていくしかなかった。
「越冬つばめ」は、1983年8月21日リリースの41枚目のシングルである。作詞は石原信一、作曲は篠原義彦、編曲は竜崎孝路である。アレンジャーの竜崎はキャンディーズの「ハートのエースが出てこない」や中条きよしの「うそ」、美空ひばりの「川の流れのように」などもあり、森昌子の曲では「哀しみ本線日本海」や「春のめざめ」などの編曲も担当しているが、作詞の石原信一、作曲の篠原義彦は「越冬つばめ」が初めてで、異色の組み合わせだった。石原信一は詩人のサトウハチローに師事し、放送作家、フリーライターを経て作詞家になった。78年、女子プロレスのビューティーペアの「かけめぐる青春」で日本レコード大賞企画賞を受賞している。作曲の篠原義彦は、「夢想花」を歌った円広志の本名である。映画『禁じられた遊び』をみてアコースティックギターを手にしたことから音楽に目覚め、その後大学時代は友人とロックバンドを組んだりしたが、曲を作りながらコンサート警備のアルバイト暮らし。たまたま世良公則&ツイストの凱旋コンサートの警備をしていたときバンド時代に知り合ったヤマハポプコンの関係者と出会う。「夢想花」のデモテープを送ると、ポプコンに出場することになり、あれよあれよという間に地方大会を勝ち抜き、78年ヤマハ世界歌謡祭のグランプリを受賞する。「とんで、とんで、まわって、まわって」という耳に残るこの曲は大ヒットしたが、その後が続かない。くすぶっているときレコード会社から「越冬つばめ」の作曲を依頼された。起死回生の意気込みで臨み一発屋のイメージを拭うため作曲者名は本名にしたという。
歌う森昌子は、24歳。まさに女ざかり。レコードジャケットの写真もきれいだが、YouTubeで当時の映像を見るとセミロングの髪型で、ロングドレスを着こなし、大人の女性の色香が漂う。
この曲を忘れられないものにしている、つばめの啼き声「ヒュールリー ヒュールリー ララ」は、冬の冷たい風の音と重ね合わせたのだろう。しかも耐え忍ぶ女の心を、森のよくとおる声が寂しさを募らせる。悲恋の短編映画を見るような情景が浮かんでくる「越冬つばめ」は、まさに昭和歌謡の名曲中の名曲だと思えるのだ。「亡骸になるならそれもいい……」と目を真っ赤にして歌う姿に万感胸に迫るものを感じさせる。それまで歌手として野心を感じさせずどちらかというと冷めていた森昌子自身に、「越冬つばめ」による第25回日本レコード大賞最優秀歌唱賞の受賞は、歌手として生きる覚悟ができ、素直に喜ぶことができるものだった。
デビュー曲「せんせい」から、86年8月21日リリースの引退記念曲「~さよなら~」(阿久悠作詞・遠藤実作曲)までの14年間にシングル50曲をリリースしたが、人気絶頂だった27歳のときに結婚し、あっさり引退してしまった
美空ひばりからは、「マチャコ」と呼ばれて可愛がられ、自分の後継者だとも言わしめた歌唱力だった。しかし、森進一とのデュエットコンサートで一度は復帰したものの20年近くのブランクを埋めるのは歌唱力のある森昌子でも大変だったようだ。
息子3人の母親になり、兄弟同士でも兄には敬語で話させ、「三つ子の魂百まで」の言葉通り体罰もいとわず、18歳になったら独立させるというスパルタ式で育てた子供たちは、長男は「ONE OK ROCK」というバンドのボーカル、次男は会社員、三男は「MY FIRST STORY」のバンドボーカルで活躍している。
「私、森昌子は歌手を生業にしておりますが、自分の一生を賭けた仕事は子育てです」と胸を張って言える森昌子は、素敵な女性だと思う。でも、わが母のようにまた紅白で歌う姿をみたいというファンがいることも伝えたい。願わくば、「越冬つばめ」を歌ってほしい。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫