【第173回直木賞候補作品から(4) 青柳碧人さん「乱歩と千畝」】森下雨村、黒岩涙香、木々高太郎、小栗虫太郎、大下宇陀児、横溝正史…。「新青年」関係者が次々登場!
静岡新聞論説委員がお届けするアートやカルチャーに関するコラム。7月16日発表の第173回直木賞の候補作品を紹介する不定期連載。4回目は青柳碧人さん「乱歩と千畝」(新潮社)。
今回の直木賞候補作には、静岡県に関係するものが複数ある。「嘘と隣人」の芦沢央さんは2018年の「火のないところに煙は」(新潮社)が第7回静岡書店大賞を得た。逢坂冬馬さんの「ブレイクショットの軌跡」は静岡県内の自動車工場が物語の起点になっている。
青柳碧人さんの「乱歩と千畝」も静岡県に関係する重要人物が登場する。戦前戦後を通じて探偵小説の領域を拡張した人気作家・江戸川乱歩と、第2次世界大戦中にドイツ軍の迫害から逃れるユダヤ人を救った「命のビザ」の発給で知られる外交官・杉原千畝の「ありえたかもしれない交流」を描いた創作。作中にも出てくる杉原千畝の妻・幸子が沼津市出身だ。同市の港口公園には顕彰碑が建つ。小説には東欧各国の領事館勤務を経て、太平洋戦争終了後に帰国した杉原一家が沼津に身を寄せる場面もちらっと出てくる。
江戸川乱歩と杉原千畝は同じ愛知五中を卒業している。6年違いの先輩後輩だそうだ。たったこれだけの事実をスタート地点にして、約380ページの物語を紡ぎ出す青柳さんの力量に感服する。
東京・早稲田のそば屋でたまたま相席し、同窓であることを確認した乱歩と千畝は、探偵小説と外交官という全く異なる道に進む。だが、二人の人生は思わぬ形で何度も交差する。互いに「決別」を意識した時期もありながら、二人の人生曲線はいつの間にか近づき、接点を作る。この成り行きを、戦前戦後の歴史的事実を下敷きにして描く。全体を貫くキーワードは「志」だろうか。
探偵小説ファンにとっては憧れの雑誌「新青年」(大正9〈1920〉年創刊)の当事者やゆかりの作家がこれでもかとばかりに出てくるのが楽しい。森下雨村、黒岩涙香、木々高太郎、小栗虫太郎、大下宇陀児、横溝正史…。筆者の手元には立風書房刊「新青年傑作選」や創元推理文庫の「日本探偵小説全集」各巻があるが、ここで書いている作家たちが「乱歩と千畝」では互いに言葉を交わしたり、議論したりしている。特に、乱歩の還暦パーティーでの横溝とのやりとりは、涙なしには読めない。
「その後どうなったか」の結論をあえて書かない場面がいくつかあってニヤリとさせられる。例えば以下の場面。
リトアニアの領事代理だった千畝がサインしたビザで日本にやってきたユダヤ人バロンは、乱歩に連れられて横溝宅を訪れ、渡米の支援を求める。彼は顔を隠すために二つの目の部分に穴を開けただけの白いマスクを顔にかぶっている。横溝は支援と引き換えにこのマスクを要求する。このエピソードはここで終わる。だが、探偵小説ファンなら誰もが「スケキヨ」の四文字を思い浮かべるだろう。
もう一つ。昭和22(1947)年、帰国した千畝は横浜市で乱歩と偶然の再会を果たす。戦中戦後の互いの身の上を語り合う二人の後ろで、一人の少女が「リンゴの唄」を歌いだす。NHKのど自慢大会で不合格だったことに、憤まんやる方ないといった様子だ。「胸を震わせる大人の歌い方」で「いつの間にか、千畝達の周りには人が集まっていた。皆、彼女の声に一心に耳を傾けている」。
歌い終わった彼女に大喝采。だが、彼女は母親に手首をつかまれ、強引に連れて行かれる。「こら、カズエ!」と怒鳴られて。おそらくは和枝である。加藤和枝、つまり後の美空ひばりであろう。
こういう仕掛けがいくつもある。乱歩と千畝の対話。千畝と後の外務大臣松岡洋右の対面。乱歩と横溝のけんか。千畝と清朝の皇族の血を引く川島芳子の交流。出会っていたかもしれないし、出会っていなかったかもしれない。日本の現代史の年表の上で、これだけ自由闊達に遊んだ小説も珍しいのではないか。
(は)