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#2 「普通の一神教」と「本格的な一神教」との違いとは? 加藤隆さんによる『旧約聖書』再入門 #1【NHK別冊100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

#2 「普通の一神教」と「本格的な一神教」との違いとは? 加藤隆さんによる『旧約聖書』再入門 #1【NHK別冊100分de名著】

加藤隆さんによる「旧約聖書」と「一神教」への再入門 #2

いまなお終わることのない宗教対立。そのルーツとは何なのでしょうか?

ユダヤ教で成立し、キリスト教、イスラムへと引き継がれる「一神教」的態度とは? 「何もしてくれない」神が、なぜ「神」であり続けるのでしょうか? 『NHK別冊100分de名著 集中講義 旧約聖書 「一神教」の根源を見る』では、千葉大学文学部教授の加藤隆さんと、その謎に迫ります。

「旧約聖書」「一神教」への再入門となる本書より、そのイントロダクションと第1講「こうして神が誕生した」全文を特別公開します。(第2回/全6回)

「普通の一神教」と「本格的な一神教」

 神や神々との関連での日本人のあり方が論じられる場合には、「日本人は万物に神が宿っていると考え、八百万(やおよろず)の神を信じてきた」といったことが、よく指摘されます。あるいは「神仏」といった表現に見られるように、さまざまな起源の超越的存在ないし力が認められているということも、よく指摘されます。こうしたことに注目して、日本人は「多神教的だ」とされたりします。町を少し歩いただけでも、いくつもの神社や寺、その他の大小の宗教的施設のそばを通り過ぎます。日本人は「きわめて宗教的」だと考えたくなります。

 その一方で日本人は全体として、何らかの宗教的伝統に意識的に忠実であるといったことがあまりなく、日本人は「無宗教的」だと指摘されたりもしています。

 次のように考えるべきだと思われます。神や神々の領域のことについて日本人は、大事なことだと考えている。神や神々は、価値の高いものとして認められる。しかし神や神々のことについて人間の側が、判断したり選択したりすることは控える。このようなことは、まさに「畏れ多い」ことです。別の表現を用いるならば、神や神々については「祭り上げる」という態度で臨むのが、日本人の基本的な姿勢である。

 こういう事情であるために、日本文明においては、さまざまな神々がそれなりに認められる(「八百万の神」「神仏」)、その一方で、神々と人々の繫がりがあまり堅固なものでない(「無宗教的」)、ということになるのではないでしょうか。

 簡単に言うならば、神や神々の領域のことについて、日本人は「選ばない」という選択をしている、と言えると思われます。

 古代以来の人類の様子を見渡すと、このような「日本人的態度」とは違う態度が、あれこれと認められます。「一神教」とされる態度は、「日本人的態度」の対極の立場にあるものの一つだと言えます。

 ある集団(民族や部族、あるいは町単位など)が一つの神だけを自分たちの神だとしていれば、それは「一神教」だ、ということになります。しかしこれだけでは「普通の一神教」であって、それほど特異な態度ではありません。この「普通の一神教」は、集団が自分たちの神だけを神として選んでいる場合です。

 ところが、「本格的な一神教」というべき態度があります。集団が一つの神だけを自分たちの神だとするという姿は、「普通の一神教」と同じです。

 しかし「本格的な一神教」の場合には、集団が自分たちの神だけを神として選んでいるから「一神教」になっている、のではありません。そうではなくて、自分たちが神を選ぶことはできない、ということが選ばれているために、「一神教」になっています。「自分たちが神を選ぶことはできない」という態度は、右で指摘した日本人の態度と重なるものです。

 しかし「自分たちが神を選ぶことはできない」というだけでは、日本文明の場合のように、さまざまな神々が認められることになって、「一神教」にはならないのではないか、と思われます。このように推察してしまうのは、自然で順当なことです。したがって、自然で順当でないことが生じなければ、「本格的な一神教」はあり得ません。

「本格的な一神教」は、古代のユダヤ教で生じました。人類史の中で、このようなことが、ある程度以上の規模で、そして永続的な形で生じたのは、この事例だけです。ユダヤ教は、ユダヤ民族という中規模の民族の民族宗教です。人類全体の立場からは、ユダヤ教で生じた出来事は、それだけで終わるならば、小さな出来事です。しかしユダヤ教で成立した「本格的な一神教」の枠組みを引き継いで、キリスト教とイスラムが生まれました。キリスト教とイスラムは、世界規模の大きな勢力になっています。

 したがって、「本格的な一神教」について学ぶことは、世界の多くの人々にとって重要なものとなっている態度の根源を知ることにつながります。

 そこで本書では、ユダヤ教において重要なものとなっている「旧約聖書」(「ユダヤ教の聖書」)をひもとき、ユダヤ民族の歴史を考慮しながら、「本格的な一神教」がどのように生まれたか、そこでの「神」とはどういうものかを、考えていくことにします。

旧約聖書の内容と位置づけ

「聖書」には、二種類あります。「ユダヤ教の聖書」と「キリスト教の聖書」です。

 聖書というと、「キリスト教の聖書」のことであるのが普通です。しかしまず存在していたのは、「ユダヤ教の聖書」です。ユダヤ教からキリスト教が派生して、「キリスト教の聖書」が生じました。

「キリスト教の聖書」は、「ユダヤ教の聖書」に、キリスト教独自の文書集を加えたものです。「キリスト教の聖書」の中の「ユダヤ教の聖書」は、従来からあったものを引き継いだものなので、「旧(ふる)いもの」だということで、「旧約聖書」ということになりました。「キリスト教独自の文書集」は、キリスト教が成立して展開するうちに生じたもので、「新しいもの」だということで、「新約聖書」という名称になりました。

 ユダヤ教は、新約聖書を権威あるものとして認めていません。したがって旧約聖書の部分を「旧……」と言う理由はありません。ユダヤ教では、キリスト教でいう旧約聖書の部分が、単に「聖書」です。

 ところで、旧約聖書はどのような内容になっているかを簡単に述べろと言われると、きわめて困る、ということになります。

 ユダヤ教における聖書の編纂は、前五~前四世紀から後一世紀末にかけて行われ、五百年ほどの時間がかかっています。内部のテキストの成立時期は、古いものは、少なくとも前十世紀あたりまでさかのぼります。つまり、千年以上の間のさまざまな事情において成立したさまざまなテキストが含まれている、ということになります。書かれたテキストになる以前の「伝承」の状態だった場合もあることを考慮すると、内容の成立についてもっと古い時期も考えねばなりません。

 聖書は、一気に書かれた長編小説や大論文のような一貫性のある書物ではありません。さまざまな時代の関心から、多岐にわたるテーマが扱われ、記述のあり方も多様で、全体としてきわめて複雑なものになっています。

 それでも敢えて述べるならば、古代のユダヤ民族の歴史が語られている、と言うことができます。

 この「古代のユダヤ民族の歴史」の大きな流れを、確認しておきます。

「族長」のアブラハムという人が、ユダヤ民族の祖先だとされています。アブラハムは、メソポタミアを出て、シリア・パレスチナの方面に移住します。

 やがてアブラハムの子孫が、エジプトに移住して、一族の人数が増大します。

 彼らはエジプトで、奴隷状態にあって、苦しみます。そこでモーセが指導者になって、エジプトから集団で脱出します。これが「出エジプト」と呼ばれる事件です。

 エジプトから脱出した集団は、荒野で暮らすことになりますが、やがてパレスチナに定着します。

 その後、彼らは王国をつくりますが、この王国は南北に分裂します。

 南北の王国のうち、まず北(イスラエル)王国が、メソポタミアで強大となったアッシリアに滅ぼされます。

 南(ユダ)王国は存続しますが、バビロニアがアッシリアを滅ぼして、このバビロニアに南王国が滅ぼされます。

 南王国の生き残りの主だった者たちが、「捕囚」として連行され、バビロニアの首都バビロンの近くの収容所で暮らすようになります。これが「バビロン捕囚」です。

 バビロニアがペルシア(アケメネス朝)に滅ぼされ、「バビロン捕囚」が終了します。ペルシアによって解放された者たちの一部は、パレスチナに戻ります。しかしバビロンに残る者たちもいます。ユダヤ人たちは、捕囚から解放されたのですが、ペルシア帝国が支配していますから、独立国をつくったのではありません。

 ペルシアは、ギリシア(アレキサンダー大王)によって滅ぼされます。ユダヤ人たちは、ギリシア系の諸王朝(特に、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア)の支配下で暮らします。

 旧約聖書は、このような歴史の流れが順々に記されている物語である、というだけではありません。

 さまざまな時代の預言者たちの活動の様子や彼らが伝えた「神の言葉」の記録、時代小説のようなもの、神と人との関係あるいは人が置かれている条件についての思索の書、儀式の言葉、詩、ことわざ集など、さまざまな文書ないしテキストも含まれています。
 
 ユダヤ民族の歴史物語も、二つの系統のものがあります。

 歴史物語を中心に据えて考えるなら、さまざまな資料も添えられている、別解釈の歴史物語もある、と言うことができます。

 どの文書が二つの系統の歴史物語にあたるのか、基本的なところを示しておきます。

・申命(しんめい)記、ヨシュア記、士師(しし)記、サムエル記(上下)、列王記(上下)
・歴代誌(上下)、エズラ記、ネヘミヤ記

 それぞれ学者たちによって「申命記的歴史」「歴代誌的歴史」と呼ばれています。

 思い切って簡単な解説を試みます。「申命記的歴史」では、出来事が語られて、それらについて一定の善悪の基準での判断がなされます。「良い王」「悪い王」がかなりはっきりします。この善悪の基準は、「申命記」に記されている掟集(前七世紀に成立)に典型的に見られるものなので、「申命記的歴史」と呼ばれるようになりました。

「歴代誌的歴史」では、理想化された歴史が語られます。ギリシア支配の最初の頃(前四世紀後半)に成立したと考えられています。アダムから始まりますが、ダビデまでは、ほとんど系図だけです。ダビデの物語に、たとえばバト・シェバのエピソードがありません(この問題については第2講で考察します)。ダビデの後にソロモンが王になるに際しても、何の争いもありません。また北王国の物語が、欠如しています。

本書『別冊 NHK100分de名著 集中講義 旧約聖書』では、・第1講 こうして「神」が誕生した
・第2講 「創造神話」の矛盾
・第3講 人間は「罪」の状態にある
・第4講 なぜ神は「沈黙」したのか
・第5講 神の前での自己正当化
・第6講 「沈黙」は破られるのか

という全6回の講義を通して、旧約聖書という一神教の根源を探っていきます。

■『別冊 NHK100分de名著 集中講義 旧約聖書 「一神教」の根源を見る』(加藤 隆 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書における「旧約聖書」からの引用は著者による訳です。

著者

加藤 隆(かとう・たかし)
1957年生まれ。ストラスブール大学プロテスタント神学部博士課程修了。神学博士。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程修了。現在、千葉大学文学部教授。専門は、聖書学、神学、比較文明論。「神的現実」(ディヴィニティ)と諸文明の関係についての関心からスタートして、「愛」の現実、「美」の現実へも関心が広まってきた。著書に、La pensée sociale de Luc-Actes, Presses Universitaires de France, Paris, 1997、『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』(大修館書店、1999)、『一神教の誕生』(講談社現代新書、2002)、『旧約聖書の誕生』(筑摩書房、2008/ちくま学芸文庫、2011)、『歴史の中の『新約聖書』』(ちくま新書、2010)、『武器としての社会類型論』(講談社現代新書、2012)など。
※すべて刊行時の情報です。

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