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秀吉・家康時代の「築城ラッシュ」の原動力とは【新・戦国史 #5】

NHK出版デジタルマガジン

秀吉・家康時代の「築城ラッシュ」の原動力とは【新・戦国史 #5】

織田信長亡き後、秀吉・家康のもとで日本の「城」はどのような変化を見せていったのか。

科学×歴史で日本史上のターニングポイントを鮮やかに描き、大きな反響を呼んだNHKスペシャル「戦国サムライの城」の書籍化作品『新・戦国史 城から迫る乱世の終焉、泰平のはじまり』の第4章「秀吉が残した慶長の築城ラッシュ」より、その一部を特別公開。

書影

 近世城郭の礎(いしずえ)を築いた織田信長の死によって、時代は次の天下人へと移り変わっていく。城の姿もまた、信長の思想を受け継ぎながら、より高く、より壮大なものへと変化を遂げていった。

 豊臣秀吉、そして徳川家康の時代へと、戦国乱世が終焉に向かう中、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いといった空前の規模の武力衝突が幾度となく起こった。この激動の時代に、それまで培われてきた築城技術はさらなる飛躍を遂げ、その波は「築城ラッシュ」と呼ばれる未曾有の現象となって日本全国へと広がっていく。

 秀吉と家康という二人の天下人の時代に、なぜ巨大城郭は次々と築かれることになったのか。築城ラッシュを実現した原動力とは何だったのか。この章では、日本各地に近世城郭が拡大した背景に焦点を合わせ、そこに秘められた天下人たちの思惑と、知られざる築城技術の進化を紐解いていく。

巨大化していく天下人の城

現在の大阪城

 信長が本能寺の変でこの世を去った翌年の一五八三年(天正一一)、後継者に名乗りをあげた秀吉によって、前代未聞の巨大城郭の築城が始まる。それが「大坂城」だ。

 秀吉の大坂城は、一六一五年(慶長二〇)、秀吉の三男・豊臣秀頼と家康が両軍あわせて数十万とも言われる軍勢を率いて衝突した「大坂夏の陣」で焼け落ちてしまうが、その後も、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠によって大規模な再建が行われるなどして、天下人の威光を映してきた巨大城郭である。

 現在、主に見ることができるのは徳川時代に築かれた石垣と、太平洋戦争の前に建てられた鉄骨鉄筋コンクリート構造の天守だが、秀吉が築いた当初の大坂城の姿をうかがい知る手がかりが、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」に残されている。

彼(秀吉)はいっそう身分を高め、不朽の名声を得、統治ならびに地位において、万事、信長を己れより劣れる者たらしめようと決意した。その傍若無人にして傲慢なことのあらわれとして、信長が六年間包囲した大坂(石山)の地に、別の宮殿と城郭、ならびに新市街の建設を開始した。それらは、その地が目的に適合していたために、建築の華麗さと壮大さにおいては安土山の城郭と宮殿を凌駕した。彼は万人からこの上もなく畏敬されていたので、何千人とも知れぬ人々がその工事に従い、多数の重立った諸侯が自らそこで働くために訪れた。

 大坂城が築かれたのは、もともと浄土真宗の石山本願寺が拠点を置いていた場所で、三方向に河川が流れる天然の要害だった。秀吉はこの地に、安土城を上回る城を築き上げることで、自らの名を次の天下人として知らしめようとした。

 そして、一五八五年(天正一三)、秀吉は武士として初めて関白に任じられると、翌年から、京の都にも新たな城として、「聚楽第」の建設を開始する。ここで秀吉は城のみならず、それまでの地割りを大きく変更して、御所の改修や寺院の移転を行うなど、京の都に大改造を施していった。

 建築史学の立場から近世城郭について研究を続けてきた名古屋工業大学の麓さんは、天下人の城づくりの意図についてこう分析する。

「私は、天守を城主の権力と城下町繁栄のシンボルだと捉えています。天下人織田信長によって安土城がつくられた時代は、それを超えるような天守はなかった。ところが、本能寺の変で信長が倒れた後、秀吉が天下人になると、安土城を超える巨大な天守を持つ、大坂城をつくっていく。
 城というと軍事目的のように捉えられがちですけれども、実際は、戦のためというよりも権力の大きさを示すためのものであって、城主がいかに安定した政治を行っていたのかを直接見ることができるものだと思っています。壮麗な石垣を築く技術、天守や城郭建築を築く技術は、軍事力よりもむしろ建物をつくったり維持したりする高い技術力を表すもので、城主の力や城下町の繁栄を示す証拠なのです」

 天守の高さを比べてみると、安土城は推定三〇メートル、秀吉時代の大坂城は推定四〇メートル。信長から秀吉の時代に移り変わるとともに、天下人の天守は巨大化していった。この変化には、建造物の高さを出すことで見る者を圧倒するだけでなく、その高さを実現する技術力・統治力までをも示す狙いがあったと考えられるというのだ。秀吉は、信長が城づくりに込めた「権力誇示」という思想を受け継ぐとともに、それを上回るものを生み出すことを強く意識していた。

肥前名護屋城という転換点

 信長を凌駕する巨大城郭を築いた秀吉は、勢いそのままに天下統一への道を突き進む。一五八七年(天正一五)に九州の島津義久、一五九〇年(天正一八)に関東の北条氏直(うじなお)を支配下に置き、信長が果たせなかった悲願を成し遂げた。

 しかし、日本列島に敵対する勢力がいなくなってもなお、戦国乱世が終焉を迎えることはなかった。秀吉は次なる目論見を抱えていたのである。それが、海の向こうに君臨する中国(明王朝)の征服だった。

 なぜ秀吉は明への野心を抱くことになったのか、現時点の研究では様々な説が唱えられており、明確な理由は明らかになっていない。だが、一五八六年(天正一四)、イエズス会準管区長のガスパル・コエリョに対して、すでにその計画を口にしていたことから、日本国内を平定する以前より練られていたことがうかがえる。

 そんな秀吉がまず遠征軍を差し向けたのは、李氏朝鮮(一三九二~一八九七)が治めていた朝鮮半島だった。明へ進軍する際の重要な足がかりと考え服属を求めたが、これを拒否されたため武力による制圧を決断する。一度目は一五九二年(天正二〇/文禄元)から一五九三年(文禄二)、二度目は一五九七年(慶長二)から一五九八年(慶長三)にかけて行われ、日本中の諸大名を動員して海を渡るという、かつてない規模の戦が展開された(文禄・慶長の役)。

 その出兵拠点として、一五九一年(天正一九)に築城が始まったのが、九州を代表する巨大城郭、肥前名護屋(ひぜんなごや)城である。秀吉によって築かれたこの城こそ、のちに近世城郭が次々と生み出された「築城ラッシュ」へとつながる一つの重要な転換点だった。

玄界灘を望む肥前名護屋城天守台跡

 肥前名護屋城は、現在の佐賀県唐津市と玄海町にまたがる東松浦半島のほぼ先端に築かれた城郭で、現在は建物こそ失われているが、往時をしのばせる石垣や諸将の陣跡が残されている。総面積は一七万平方メートル。一説には二〇万人以上が集い、一三〇を超える諸大名の陣屋が構築されたという。当時は、秀吉の大坂城に次ぐ規模を誇る巨大城郭であったと考えられている。

 秀吉が築城を命じたのは、子飼いの家臣として知られる加藤清正をはじめ、黒田長政や小西行長といった九州各地の大名である。その築城期間は短く、一五九二年(天正二〇)三月に秀吉が着陣するまでの、約五ヶ月で大部分が完成したとされる。

「矢穴」に隠された秘密

 秀吉のもと、九州大名を動員して築かれた日本屈指の巨大城郭。しかし、どのようにしてこれほどの城をわずかな期間で築き上げることができたのだろうか。大名たちの築城技術に考古学調査や科学的アプローチから迫っているのが、奈良文化財研究所主任研究員の高田祐一さんだ。

 高田さんが注目したのは、肥前名護屋城の石垣に残された「矢穴(やあな)」と呼ばれる加工痕。そこに短時間で巨大城郭を生み出す秘密が隠されているという。

「近世城郭とそれ以前の時代の城との違いとしては、石垣に大きな割石(わりいし)を使っているかどうかが非常に大きな差になっています。この矢穴技法の登場によって巨石を割ることが可能になったため、石垣石を大量生産する上で重要な技術の一つとなりました」

 矢穴とは、石垣に使用する大きな石を切り出すために掘られた穴のことで、この矢穴を用いた切り出し方法は「矢穴技法」と呼ばれる。まずノミやセットウ(ハンマーの一種)などの道具を用いて、キリトリ線のように一定の間隔で、直線状に石に穴を掘っていく。そうしてできた穴に鉄製の矢(クサビ)を打ち込んでいくことで、人間の力だけで巨石を割ることができるのだ。

肥前名護屋城の石垣石に残された矢穴断面(写真提 供:高田祐一氏)

 矢穴技法を用いれば、石垣に適した大きさに効率的に加工できるため、自然石から適当なものを探すよりも短期間で大量の石材を調達できるようになる。さらに、加工によって形が揃った規格石材は積み上げやすく、より高く安定した石垣を築くことが可能になる。つまり、矢穴技法は石積技術のイノベーションとも言えるものだった。

 このように、肥前名護屋城は、矢穴が数多く使用された初めての城郭となった。矢穴技法によって大量の石を調達することに成功し、わずか五ヶ月とも言われる短期間で、完成に漕ぎ着けることができたと考えられるのだ。

この続きは『新・戦国史』でお楽しみください。本書は以下の構成で、信長から家康へと続く城郭革命の実像を描き、「近世城郭誕生の秘密」に迫ります。

第1章 信長の城郭革命
第2章 令和の大調査で迫る安土城
第3章 消えた安土山図屛風と大航海時代
第4章 秀吉が残した慶長の築城ラッシュ
第5章 家康の国づくりと名古屋城
第6章 巨大城郭がもたらした技術・社会変化
第7章 「泰平の世」はいかに到来したか

NHKスペシャル取材班
最新の発掘調査と科学的分析から近世城郭の誕生に迫った、NHKスペシャル「戦国サムライの城」の制作チーム。同番組は、信長から家康へと続く城郭革命の実像を描き、大きな反響を呼んだ。
※刊行時の情報です

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