『ナチスから118人を救った女性』なぜ彼女は裏切られ、強制収容所へ送られたのか
第二次世界大戦中のヨーロッパにおいて、ナチス・ドイツの占領という脅威に直面しながらも、不屈の意志で抵抗を率いたひとりの女性がいました。
彼女の名はアンドレ・ド・ヨング(Andrée de Jongh,1916-2007)。
若きベルギー人デザイナーであり、のちに看護師として生きる彼女は、敵の包囲網をかいくぐる地下脱出ルートを自ら作り上げました。そして自らも最も危険な最前線に立ち続け、数多くの命を救い出したのです。
しかし、極秘裏に運用されていたこのルートの陰では、組織を揺るがす裏切り者の罠が進行していました。
今回は彼女の果敢な挑戦と、困難に立ち向かった激動の歩みをたどります。
コメット・ラインの創設と死と隣り合わせの救出活動
1940年5月、ヨーロッパは緊迫した情勢の中にありました。
前年に始まった第二次世界大戦において、ナチス・ドイツが圧倒的な軍事力で周辺国を次々と制圧し、その勢力を急速に拡大していたためです。
ドイツの次なる目標はフランスの攻略でした。その進撃ルートとして選ばれたのが、隣国であるベルギーです。
ベルギーはどの陣営にも属さない中立の立場を表明していましたが、ドイツはその方針を無視して国内へ侵攻しました。
激しい攻撃を受けたベルギーはわずか18日後に降伏を余儀なくされ、首都ブリュッセルはドイツの占領下に置かれることになります。
この国家の危機に際し、自らの強い義務感から即座に行動を起こしたのが、当時24歳のアンドレ・ド・ヨングです。
看護教育を受けた後、ベルギー東部マルメディで商業デザイナーとして働いていた彼女は、人道主義に基づく強い正義感を備えていました。
ドイツ軍がベルギーへ侵攻すると、ブリュッセルへ移り、赤十字のボランティアとして活動を始めたのです。
こうして、のちに多くの連合国軍パイロットの救出へとつながる、彼女の命がけの抵抗運動が始まりました。
彼女は、小学校の校長を務めていた実父フレデリック・ド・ヨングらの協力を仰ぎながらも、自らが主導して撃墜された連合軍の航空兵を秘密裏に保護しました。
そして、中立国のスペインを経由してイギリスへと帰還させる地下組織を立ち上げます。
「コメット・ライン」と名付けられたこの組織を通じて、彼女はブリュッセルを起点に、パリを経由してピレネー山脈を越え、スペインへと至る1,000キロメートル以上もの広大な逃走ルートを自らの手で構築したのです。
アンドレは一般市民による献身的な協力を取りまとめ、この救出活動の中心的な役割を果たします。
彼女の指示のもと、協力者たちは潜伏する飛行士に偽造身分証や民間人の衣服を提供し、列車の切符を手配するなどして、その移動を助けていきました。
しかし、移動ルートとなる列車内や駅には、常にドイツの秘密警察ゲシュタポの目が光っていました。
一瞬の油断も許されない状況が続きましたが、彼女は常に冷静に計画を遂行し続けたのです。
そんな危険極まりない状況下で、アンドレは組織を統括するだけでなく、自ら最前線の案内人としても活動しています。
1941年から1943年までの間に、険しいピレネー山脈を徒歩で何十回も超え、約118人もの飛行士を中立国であるスペインのマドリードや、イギリス領ジブラルタルへと送り届けたのです。
この救出活動は、貴重な航空兵を再び戦線へと復帰させ、ナチス・ドイツと戦うイギリスなどの連合軍に多大な貢献を果たしました。
一民間人のアンドレが始めたこの活動に対し、ついにイギリスの軍事情報部(MI9)もその重要性を認め、資金や物資の支援に乗り出します。
イギリス側はそれと引き換えに、組織の管理権を要求してきましたが、アンドレは組織の独立性を強く主張し、あくまで「民間人による人道組織である」という立場を決して崩しませんでした。
こうして彼女の熱意によって組織の規模は拡大していきました。
しかし関わる協力者の数が増えるにつれて、敵に情報が漏洩するリスクもまた、急速に高まっていったのです。
工作員デズブリの潜入
実はこの時すでに、ナチス・ドイツ側は網の目のように張り巡らされた逃走ルートの存在を察知していました。
アンドレが心血を注いで築き上げたコメット・ラインの成功を阻止するため、ドイツ側は執拗な捜査と情報収集を行っていたのです。
その中で、ドイツの軍事諜報機関であるアプヴェーアや秘密警察ゲシュタポは、占領地の市民をスパイとして組織へ送り込む工作を開始します。
その代表格が、ジャック・デズブリという名のベルギー人の男でした。
熱狂的なナチズム信奉者である彼は、フランスの親独派組織に関わったのち、ドイツ側の秘密工作員として登録され、コメット・ラインを内側から破壊する任務を帯びていたのです。
デズブリはナチスに追われる逃亡者や、連合軍に味方する愛国者などを巧みに装い、コメット・ラインへと接近しました。
偽の経歴と見事な話術で関係者の信用を勝ち取り、アンドレの目が届かない人間関係の奥深くへ入り込んでいったのです。
彼女の指示に従って動いていたメンバーたちは、デズブリが仕掛けた罠を見抜くことができませんでした。
こうして、隠れ家の場所や次の移送計画といった重要機密が、次々とデズブリの手へ渡ってしまったのです。
1943年に入ると、デズブリがもたらした内部情報に基づき、ゲシュタポによる一斉摘発が開始されます。
彼は協力者の信頼を利用して次々と面会の約束を取り付け、その指定された場所にゲシュタポを同行させて待ち伏せたのです。
これにより、アンドレが最前線で飛行士たちの誘導を託していた案内人や、避難者を自宅に匿っていた一般の家庭が、事前の警告を受ける間もなく次々と拘束されていきました。
このデズブリの裏切りで、アンドレが命がけで守ろうとしたコメット・ラインは絶対的な窮地に追い込まれたのです。
指導者の逮捕と残された組織の受難
そして、アンドレ自身の身にも最大の危機が訪れました。
1943年1月15日、ピレネー山脈の麓のウルニュという村の隠れ家に滞在し、次の山越えを控えていた際、密告を受けたゲシュタポの急襲によって逮捕されたのです。
彼女の逮捕は、組織にとって致命的な痛手となりました。
その後、彼女の意志を継いだ父フレデリックが中心的な役割を引き継ぎましたが、そこにもデズブリの魔の手が迫ります。
デズブリの偽情報と手引きによって、1943年6月7日、父フレデリックもパリで逮捕されてしまったのです。
彼はパリのフレンヌ監獄で激しい尋問を受け、1944年3月28日にモン・ヴァレリアン要塞で処刑されました。
さらに、アンドレの活動を経済的に支えていた有力な資金調達者であり、ベルギー貴族であったジャック・ドニー男爵もまた、この一連の裏切り工作の網にかかり、ゲシュタポによって身柄を拘束された後に、死刑に処されました。
各地の拠点が次々と摘発され、絶対的な指導者であったアンドレとその支援者たちを失ったコメット・ラインは崩壊の危機に直面しました。
それでも残されたメンバーたちは、疑心暗鬼の恐怖に耐えながら、彼女が築き上げた命のルートを守り続けたのです。
過酷な収容所生活と裏切りの結末
アンドレが関与したコメット・ラインの協力者約1700人のうち、一連の摘発によって約290人が処刑されるか、移送先の強制収容所で命を落としました。
逮捕されたアンドレ自身も、ドイツのラヴュンスブリュックなどの強制収容所へ送られ、過酷な環境に身を置かれることになります。
ゲシュタポの尋問を受けた際、アンドレは自分こそがコメット・ラインの創設者であり、リーダーであると主張しました。
ところがゲシュタポは、若い女性である彼女がこれほど大規模な組織を指揮できるはずがないと決めつけ、その証言を虚偽の自供とみなしたのです。
このドイツ側の誤算によってアンドレは即座の処刑を免れ、1945年4月に解放を迎えました。
解放された当時は深刻な栄養失調に陥り、身体は非常に衰弱していたアンドレでしたが、療養を終えると、命を落とした父親や同志たちの名誉を回復し、その犠牲を記録にとどめるための活動を始めます。
一方、組織を崩壊に追い込んだデズブリは、パリ解放後にドイツへの逃亡を図ったものの逮捕されました。
コメット・ラインに対する裏切り行為と、それに伴う多数の殺人関与について厳しく追及された結果、裁判で死刑判決が下され、処刑されました。
戦後のアンドレは看護の道に戻り、ベルギー領コンゴやエチオピアなどで医療活動に従事し、主にハンセン病患者のケアに携わります。
1985年には戦時中および戦後の功績により、ベルギー国王ボードゥアン1世から爵位を授与されました。
ナチスに屈することのなかったアンドレの「命を救いたい」という強い思いは、生涯を通じて貫かれていたのです。
参考 :
The Comet Escape Line:The Inside Story of the Most Successful Escape Line of the Second World War/Alexander Stilwell (著)
文 / 草の実堂編集部