なぜ聖徳太子の一族は滅亡したのか?「上宮王家」を葬ったのは本当に蘇我入鹿だったのか
643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の第一皇子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)と、その一族が滅亡する事件が起こりました。
舞台となったのは、聖徳太子ゆかりの斑鳩宮(いかるがのみや)です。
ここを襲ったのは、蘇我入鹿(そがのいるか)の命を受けた軍勢でした。
そのため、この事件は長く「聖徳太子の一族を滅ぼした蘇我入鹿の暴挙」として語られてきました。
しかし、本当に入鹿一人の意思によって起きた事件だったのでしょうか。
今回は、山背大兄王をめぐる血統と皇位継承の問題から、上宮王家滅亡の真相に迫ります。
山背大兄王一族を滅ぼしたのは、本当に蘇我入鹿なのか?
643年(皇極天皇2年)11月、蘇我入鹿の命を受けた軍勢が、上宮王家(じょうぐうおうけ)の住まいである斑鳩宮を急襲しました。
上宮王家とは、聖徳太子(厩戸皇子)の一族を指します。
しかし、太子自身はこの襲撃のおよそ20年前に薨御しており、襲われたのは太子の第一皇子である山背大兄王と、その家族や臣下たちでした。
この変事に際し、山背大兄王は一族を率いて斑鳩宮を脱出し、背後の生駒山に身を隠します。
そのとき、付き従っていた三輪文屋君(みわのふんやのきみ)は、
「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」
つまり「東国へ逃れて再起を図り、兵を集めて入鹿と戦うべきだ」と進言したとされます。
しかし、山背大兄王は戦うことを望みませんでした。
生駒山を下りると、父・聖徳太子が造営したとされる斑鳩寺(現・法隆寺の若草伽藍)に入り、妃妾など一族とともに縊死し、上宮王家はここに滅亡したのです。
この事件を後世に伝えた代表的な史料が、奈良時代に成立した正史『日本書紀』です。
蘇我氏の権勢や蝦夷・入鹿父子の専横が強く描かれており、645年(大化元年)の乙巳の変による蘇我宗本家の滅亡へとつながる流れが示されています。
一方、藤原氏の家伝である『藤氏家伝』や後代の関連史料まで視野を広げると、山背大兄王の排除には入鹿だけでなく、複数の皇族や有力豪族が関わっていた可能性も見えてきます。
では、なぜ山背大兄王は排除されなければならなかったのでしょうか。
その背景を探るには、王位継承をめぐる血統関係を見る必要があります。
ここからは、山背大兄王と古人大兄皇子、そして皇極天皇をめぐる血縁関係に注目していきましょう。
皇位継承をめぐる「敏達天皇系」と「用明天皇系」の対立
山背大兄王(やましろのおおえのおう)の死を考えるうえで、注目したいのが皇位継承をめぐる血筋の問題です。
周知のとおり山背大兄王は、用明天皇の皇子である聖徳太子の第一皇子でした。
そしてこれも歴史の教科書で知られるとおり、聖徳太子は叔母に当たる推古天皇の摂政を務め、蘇我馬子との間でトライアングル的な政治体制を形成していました。
推古の後継者としては、敏達天皇の孫・田村皇子と山背大兄王が有力でした。
そして推古天皇は628年(推古天皇36年)3月に崩御しますが、後継者は明確には定まらず、田村皇子と山背大兄王をめぐって群臣の意見が割れました。
この二人は、皇統の上でも異なる位置にいました。
田村皇子は敏達天皇系、山背大兄王は用明天皇系に属していたのです。
最終的に皇位についたのは田村皇子で、舒明天皇として13年間在位し、641年(舒明天皇13年)に崩御します。
その後、皇后だった宝皇女(たからのひめみこ)が即位し、皇極天皇(こうぎょくてんのう)となりました。
つまり推古天皇の死後、王位は田村皇子、さらにその皇后である皇極天皇へと引き継がれていったことになります。
舒明天皇と皇極天皇の間には、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)という二人の皇子が生まれました。
しかしこの時期には彼らのほかにも、皇位継承をめぐって重要な立場にある皇族がいました。
用明天皇系の山背大兄王に加え、舒明天皇と蘇我馬子の娘・法提郎女(ほていのいらつめ)との間に生まれた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)も、有力な存在でした。
とくに古人は、蘇我入鹿(そがのいるか)にとって従兄弟にあたる重要な人物です。
一方で、山背大兄王もまた蘇我氏の血を引いていました。
上宮王家を葬ったのは、入鹿一人ではなかった?
『日本書紀』は、入鹿が「上宮の王たちを廃して、古人大兄皇子を天皇に立てようとした」と伝えています。
しかし、山背大兄王を排除することで利益を得るのは、入鹿だけではありませんでした。
実際に襲撃を命じたのは入鹿ですが、軍勢を率いたのは朝廷の有力豪族である巨勢徳太臣(こせのとこだのおみ)や土師娑婆連(はじのさばのむらじ)らであり、後代の史料には敏達天皇系の軽皇子(かるのみこ)や大伴氏など、ほかの皇族・有力豪族が関わったとする記録も残されています。
こうした顔ぶれを見ると、この事件を入鹿一人の暴走だけで説明するのは難しく、山背大兄王の排除を望む複数の政治勢力が存在していた可能性が浮かび上がります。
また先に述べたように、入鹿にとって山背大兄王は蘇我氏の血を引く親族でもありました。
それにもかかわらず、なぜ彼を滅亡に追い込む必要があったのでしょうか。
その理由としてまず考えられるのが、入鹿が従兄弟でもある古人大兄皇子を皇位に就けようとしていたことです。
山背大兄王は、その実現を妨げる有力な皇位継承候補であり、入鹿にとっては親族であると同時に、排除すべき政治的な障害でもあったのです。
そして、こうした入鹿の思惑と重なるように、皇極もまた敏達天皇系を中心とした王位継承を維持しようとしていたのではないでしょうか。
その立場から見れば、用明天皇系として存在感を持つ山背大兄王は疎ましく、危険な存在と見なされていたとも考えられます。
もちろん皇極が山背大兄王殺害を直接命令したことを示す史料は、現在のところ確認できません。
しかし入鹿にとっては古人大兄皇子擁立の障害であり、皇極にとっても王位継承上の不安定要因だったとすれば、両者の利害が一致していた可能性は十分に考えられるでしょう。
山背大兄王の死からわずか1年半後の645年(大化元年)、今度は皇極の目の前で入鹿自身が殺害されます。
皇極の皇子である中大兄が起こした乙巳の変です。
そして入鹿が推した古人もまた、このすぐ後に謀反の罪で処刑されました。
このように考えると、山背大兄王ら上宮王家一族の滅亡は、用明天皇系が王位継承をめぐる権力闘争において敏達天皇系の前にあえなく敗れ去った結果であると言えるかもしれません。
参考文献 :
『日本書紀』巻第二十三「舒明天皇紀」・巻第二十四「皇極天皇紀」
『藤氏家伝』上巻「大織冠伝」、原島礼二著『古人大兄と山背大兄王』大和書房 他
文/高野晃彰 校正/草の実堂編集部