1990年代の洋楽シーン【アシッドジャズ】ブラン・ニュー・ヘヴィーズとジャミロクワイ
リレー連載【1990年代の洋楽シーン】vol.2 アシッドジャズ
当連載では、1990年代に洋楽シーンを沸かせた音楽ジャンルを毎回ピックアップしながらシーンの背景を紐解いていきます。
アシッドジャズとはレア・グルーヴなのか?
アシッドジャズ(Acid Jazz)という言葉は、イギリスで勃発したクラブカルチャーの総称であり、そこから誕生したレコードレーベルの名称でもある。1980年代半ばから1990年代前半まで、活発にうごめいていたこの忘れがたいムーブメントは、時期的にも内容的にもレア・グルーヴと被る… というか、ニアリーイコールといっても差し支えないだろうか。
ざっくり、1970年代を中心としたソウル / ファンクを再評価したレア・グルーヴに対し、主に1960年代〜1970年代のアップテンポなジャズ / ジャズファンクにスポットライトを当てたのがアシッドジャズといったところ。ロックンロール誕生以降の米ソウル / ジャズを基盤としたブラックミュージック(とその周辺の白人ソウル)で踊る、というのが根底に流れる共通項である。
いずれにしろ、ロックの産業革命たるニューウェーブ期に多感な時期を過ごし、ネオモッズ、ポストパンク、パブロック、ブギーソウルなどの洗礼を受けた、主にロンドンの若者たちが自然発生的に興し支持した大きなうねりだったということだ。
アメリカのニューヨークにおけるヒップホップ / ブレイクビーツの顕在化(1979年〜)といった衝撃も、うねりの遠因のひとつなのだろうか。日本でサブカル的人気を博したフリーソウル・ムーブメント(1990年代前半〜)を思い起こしたりもするが、王道を外しながら(重箱の隅をつつく傾向を醸し出しながら)過去音源に脚光を浴びさせるという目的は同じなのかな。
アシッドジャズとはジャズで踊らせるクラブカルチャー
1980年代前半、イギリスの若きDJたちが、古き佳き、そして知る人ぞ知るアップテンポなジャズ / ジャズファンクで踊らせるというカルチャーが誕生。これが徐々にムーブメントへと発展していく。当時の有名DJを挙げるならば、ポール・マーフィー、コリン・カーティス、ジャイルス・ピーターソン、そしてアシッドジャズという言葉の発案者といわれるクリス・バングス… など。
1980年代半ばになる頃には、この手のクラブイベントをアシッドジャズと呼ぶようになり、日本でも人気が高かったワーキング・ウィーク(初アルバムは1985年リリース)が活動を活発化。そういったアーティストを積極的に紹介していたイギリスの音楽誌『Straight No Chaser』の存在も大きかったようだ。
1990年代に入る頃になると、ロンドンを中心としたイギリス国内において、ジャズ / ジャズファンクで踊るクラブカルチャーが完全に確立し定着。要は音楽ジャンルとしてのアシッドジャズが、イギリスにおいて一般的市民権を得たというわけだ。
ムーブメントの中心はブラン・ニュー・ヘヴィーズとジャミロクワイ
そして、アシッドジャズという言葉がイギリス国外に知れ渡ったのは、やはりその名を冠した『アシッド・ジャズ・レコーズ』からリリースされたレコードを通して… ということになるだろう。このレーベルはジャイルス・ピーターソンとエディ・ピラーが1987年に設立。最初のリリースは、かのガリアーノのシングル盤。以降才気あふれる若き新進アーティストの作品を主にシングル単位でリリースしていく。
アシッドジャズ・ムーヴメントの中心アーティストとなるジャミロクワイの初期のシングルや、ブラン・ニュー・ヘヴィーズのファーストアルバムもこの時期の『アシッドジャズ・レコーズ』から発売されている。しかしその後、ジャミロクワイは周知の通りソニーから、ブラン・ニュー・ヘヴィーズはアメリカを拠点とするレーベル、デリシャス・ヴァイナルからとそれぞれが『アシッド・ジャズ・レコーズ』から離れたところでブレイクを果たしている。
ついでにいえば、1990年代アシッドジャズ・ムーブメントの重要アーティスト、インコグニート(ブルーイ)の作品もトーキン・ラウドからのリリースだった。なので、1990年代のアシッドジャズのうねりは、『アシッド・ジャズ・レコーズ』を中心として、トーキン・ラウド、デリシャス・ヴァイナル、そしてソニーやポリドールといったメジャーからも複合的にリリースされ、英国以外をも巻き込んでいった側面を持つ。
ヒップホップと融合したジャズファンクなブラン・ニュー・ヘヴィーズや、どんどんハウスへと傾倒していったジャミロクワイがそうだ。個人的には1990年代半ばに来日公演を敢行したマザー・アースが、まるで見た目も含めて米スワンプロック・バンド風情だったのが強烈に印象に残っている。
イギリスの国民性をも反映していた側面を持つアシッドジャズ・ムーブメント
また、『アシッド・ジャズ・レコーズ』が、アーティストものと並行してリリースしていた『トータリー・ワイヤード』というオムニバスアルバムも重要な役割を果たしていた。1980年代後半からリリースが始まっているようだが、イギリスのクラブの雰囲気をまんまパッケージしたような新進アーティストのショウケース的内容には、良い意味での胡散臭さが醸し出されていて、輸入盤店において眩しく目に映ったものだ。モノクロタッチな『アシッド・ジャズ・レコーズ』のレーベルロゴが、やたらとかっこよく見えたよなあ。
レーベルとして、そしてクラブカルチャーとしてのアシッドジャズ・ムーブメントの最盛期、というか最も勢いよく元気だったのは1990年代前半までというのは明白だ。『アシッド・ジャズ・レコーズ』出自の2大アーティスト、ブラン・ニュー・ヘヴィーズとジャミロクワイがアシッドジャズの流れとは別ベクトルに向かった結果のビッグスター化は、ムーブメントの終息を早めたのだろうか。やがて欧州のダンスミュージック・シーンの主流は、いわゆるビッグビートやハウスミュージックへと移行していくのだった。
そして今、このアシッドジャズ・ムーブメントを振り返れば、1970年代後半〜1980年代前半にイギリスで盛んだったノーザンソウル・ブームがダブってくる。1960年代のアップテンポな米ソウル系ジャンプナンバーで踊ろうぜ!という再評価の波だったが、イギリスにおいては、本国アメリカ以上にブラックミュージック全般をアカデミックに、かつマニアックに追及する傾向にあるということが期せずして露になっていた。
モータウン・サウンドを含む1960年代ソウルを掘ったノーザンソウル・ブームに比して、1960年代~1970年代のジャズ / ジャズファンクを掘ったアシッドジャズ・ムーブメントは、米ブラックミュージックへの愛情が表現されたイギリスの国民性をも反映していた側面を持つのかもしれない。