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22歳の中森明菜「タトゥー」の歌詞は浅はかな我々への挑戦状なのか?

Re:minder

1988年05月18日 中森明菜のシングル「TATOO」がリリースされた日

中森明菜「TATTOO」歌詞の意味を考えてみる


中森明菜「TATTOO」という曲のイメージを問われたときに、まず第一声にでてくるのは、あの刺激的なパフォーマンスと衣装ではないだろうか。

鎖骨と肩を露出した超ミニのタイトなワンピースに、そのセクシーさを120%引き立てるセクシーな振付。その振付は振付のようであって、中森明菜が自身の欲求のままに腰を降っているようなパフォーマンスにも見えて、これにドキドキさせられたという方は多いだろう。彼女がその時まだ22歳であったというのも驚きである。

しかしながら、その楽曲自体いったい何を伝えようとしていたのか、意外と考えたことがなかった。タトゥ、もとい、刺青。彼女があれだけ激しい動きをしているのだから、「タトゥ」をもって何か伝えたいことがあったのではないか。そこで「TATTOO」の中で言う「タトゥ」が何を意味しているのかをあらためて考えてみる。

「TATTOO」の歌詞はバブルに溢れている


 都会にはびこる 哀れなアンドロイド
 くどき上手の チープなレプリカント
 ハートのなえた 男は要らない Get out!
 チャンスをあげるわ 熱いレボリューション

この曲の歌詞のパッと見た特徴としては、「アンドロイド」「レプリカント」「アジテーション」「パラノイア」など…… あまり歌詞では聞き慣れないカタカナがたくさん散りばめられていること。

「アンドロイド」はスマホ時代の今でこそ理解できるが、当時はどうだったのだろうか。そして聞き馴染みのない「レプリカント」は「レプリカ」から来た造語で、複製品のことを言うらしい。つまり「くどき上手のチープな レプリカント」は「口はうまいけどやっすい量産型(男)」のことを示しているのだろう。かなり、過激な歌詞だ。しかも、この部分だけではない。

 都会はSweet Drug
 いかさまパラダイス
 孤独にまみれて 恋もパラノイア
 優しささえ 毒入りのジェリービーンズ
 (※パラノイア:偏執病、妄想症ともいわれ、頑固な妄想のみをもち続けている状態)

まさに、毒入りなのに、甘くて見た目は美しいジェリービーンズのような歌詞だ。カタカナが無理に多く、使い方もバブル的な時代を感じさせる。しかしながら歌詞の中の毒を噛み締めて聴いていると、一周回ってかっこよく聴こえてくる。

なぜならこのカタカナたちは、見栄でカッコつけるための飾りたてたカタカナではなく、カタカナの存在自体が「ちょっと回りくどい言い方にしただけで、馬鹿なあなた達はバカにされてることすら気づかないでしょ?」と、聴衆を扇動するために置いた仕掛けのような気がするからだ。

想像が膨らむ歌詞、「TATTOO」の中でタトゥは何を表す?


 Show me your Reallove
 咲かせなさい その胸に消えないバラを
 Show me your Reallove
 堕としてみてこの私 TATTOOで
 Just falling you

サビでは「Show me your Reallove」と何度も繰り返す。その直前までの婉曲的な軽蔑が一転、今度は「本当の愛を見せてみなよ」と語りかけている。

さて、ここで考える。いったいこの歌の中の「タトゥ」は何を表しているのだろう。「咲かせなさい その胸に消えないバラを」とあることから、胸部にあるバラの(本物の)タトゥと捉えてもいだろう。しかし、Aメロ、Bメロで軽薄な人間や都会の孤独を歌ってきたこの曲のことだから、そのまま捉えてはいけないような気がしてしまう。

本当のタトゥでないのなら、一気に想像が広がる。相手の肌に残すキスマークと捉えることもできよう。また「胸」も “胸部” でなく “心” の意なのだとすれば、「バラ」は花言葉でもある「真実の愛」ととらえることもできるし、「バラが咲く」という言葉は性行為のエクスタシーと考えることもできる。そう考えると、「消えないバラ」はその経験を絶対に消えないように脳裏(あるいは身体)に刻みつけることへの比喩と捉えることもできるだろう。

答えのない想像は尽きないが、いずれ、素肌に触れなければタトゥは刻めない。私の素肌に触れられるものなら、やってみなさいよ…… という意図はどこかにあるのではないだろうか。なえたハートをもう一度たぎらせて、鷲掴みで愛をもぎとりに来なさいよ、かっこつけた薄っぺらい愛の言葉なんかいらないから、本心を見せてみなさいよ。中森明菜の女豹のようなそのパフォーマンスは、そんな風に相手を誘い、試し、挑発しているのではないだろうか。

中森明菜から私たちへの挑戦状?「TATTOO」


先にも書いたように答えが出るわけではないし、中森明菜がどう捉えていたのかも、私たちはそのパフォーマンスと歌唱表現から、あれこれ想像するにとどまる。しかしいずれバブル絶頂の日本の都会にはびこる、浅はかな人間をあざ笑い、そんな薄っぺらい時代に一石を投じた曲であるとは結論づけて良いのではないだろうか。そう思ってもう一度聴いてみると、“バブル真っ最中っぽい歌詞” にうまく擬態しながら、その一方でそれを一歩離れたところから軽蔑している中森明菜の姿が、私には見えた気がした。

身体のどこかに隠した刺青を見抜けるかしら? とばかりに挑発してくる中森明菜のパフォーマンス。この激しさと妖艶さに目が行ってしまいがちだが、それは「TATTOO」という曲そのものにかかったモヤを「私の真意が知りたいのなら、この歌の本質を見抜いてごらん」という、聴衆である私たちに向けての挑戦状なのかもしれない。

※2021年5月23日に掲載された記事をアップデート

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