ロシアの「洗脳教育」対ウクライナの「教育アプリ」 小泉悠が体感した「教育をめぐる戦争」
東京大学先端科学技術研究センター准教授・小泉悠先生は、今年(2026年)4月、開戦後初めてウクライナの首都キーウを訪れました。空爆が続くなかでも、アプリで勉強を続ける子どもたちや、占領地域で起きている「教育をめぐる戦い」とは。親として知っておくべき「戦争と子どもの未来」に迫ります。
画像▶【異例の重版】なぜ、今?「日本国憲法」を子どもに教えたい親が急増する理由小泉 悠(こいずみ ゆう)
東京大学先端科学技術研究センター(国際安全保障構想分野)准教授。早稲田大学社会科学部、同大学院政治学研究科修了。政治学修士。民間企業勤務、外務省専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所(IMEMO)客員研究員、公益財団法人未来工学研究所客員研究員を経て、現職。専門はロシアの軍事・安全保障。
キーウで見た日常 戦争の中でも続く「普通の生活」
──この戦争が始まってすでに4年も経ちましたが、いまだに彼らの生活のあたり一面には戦争が暗く影を落としているのでしょうか? また、兵士や一般市民の方が亡くなっている数は、当初より減ったのでしょうか?
小泉悠先生(以下、小泉先生):残念ながら亡くなっている数はむしろ増えていて、前線では今も多くの兵士が命を落としています。一方で、いわゆる「銃後」と呼ばれる一般市民の被害は、第二次世界大戦中のドレスデン空襲や東京大空襲のように、街全体が破壊されて大量の市民が亡くなる、という形とは違っています。
占領地域や前線での戦闘による死者を除けば、一般市民が巻き込まれて亡くなる数は、月に100人台、多いときでも300人台くらいです。
小泉先生:今年(2026)4月、私は開戦後初めてキーウを訪れました。そのときの第一印象は、「思っていたよりも、戦争前と変わらない」でした。
もちろん、軍隊のポスターは街のあちこちにあり、そこには戦時中の国の雰囲気が漂っていましたが、飲食店やレストランは普通に営業している。街を歩いていると、「いったい何の戦争が起きているのだろう」と感じるほどでした。
とはいえ、この日常が前線で兵士が次々に亡くなっている現実と矛盾するという話ではありません。一見以前と変わりない生活を送りながらも、ウクライナの人々は「ここでみんなが耐えなければ前線が崩れ、国そのものがなくなってしまう」という大きなプレッシャーを感じています。
さらに突然ドローンが家に飛び込み、一家全員が亡くなるような悲劇も日常的に起きていて、多くの人が心を痛めています。ただ、それでも現状の被害だけで「ロシアに屈する」というほどの状況ではない。そうした状態が続いているのだと思います。
戦時下でも子どもたちに学びの機会を途切れさせない
──常に戦時下というプレッシャーがある中、ウクライナでは子どもの心の成長と、実際の学校教育にどのように取り組んでいるのでしょうか?
小泉先生:キーウを訪れた際、ウクライナのデジタル・トランスフォーメーション省(DX省)の方たちから、戦争の中でテクノロジーをどのように活用しているのか、話を聞きました。その一つが、「ムリヤ」という教育アプリです。「ムリヤ」とは、ウクライナ語で「夢」という意味。このアプリを使えば、空爆が続く状況でもオンライン授業を受けることができ、教科書もアプリから見ることができます。
特に印象に残ったのは、「これがあれば、占領地域にいる子どもたちも、ウクライナの教育を受け続けられる」という話でした。占領地域の学校では、当然ウクライナ語を使うことは認められず、ロシア側の価値観に基づいた教育が行われています。しかし家庭の中、おそらく人目を避けながらでしょうが「ムリヤ」を使えば、ウクライナの学校の授業を同時に受けることができるのです。
教育というのは、人間の価値観そのものをつくる営みです。誰が、誰に、どのような教育をするのか。それ自体が、実は大きな政治であり、ときには一種の力による支配にもなります。占領地域では、まさにその教育をめぐる戦いが起きているのです。
小泉先生:一方、ロシア側の教育を見ると、愛国心を強調し、軍事的な価値観を取り入れる方向が強まっています。もともとその傾向はありましたが、この戦争が始まってから、さらに強まった面があります。
停戦交渉にも参加していた元文化大臣で、現在はプーチン大統領の顧問的な立場にいるメジンスキーが、現在ロシアの公民の教科書、それも現代史を扱う部分の執筆者になっていることを見ても、愛国教育が強まっているのはわかるでしょう。
ロシアの大学には、以前から軍事教練の制度がありました。エリート大学では、男子学生が卒業までに予備役将校になる仕組みもあり、実はプーチン大統領自身もレニングラード大学時代に砲兵コースを修了していて、軍事的には砲兵出身です。
しかし、この戦争が始まってからは、大学に軍のリクルーターが訪れ、成績の悪い学生に対して、半ば圧力をかけるような形で軍への参加を促すことも起きているようです。
子どもたちをめぐるもう一つの戦い
小泉先生:もちろんウクライナも戦時下の国家ですから、同じように愛国教育は行われていると思います。ただ、大きく違う点があります。それは、ウクライナには現在、占領地域が存在しているということです。
ロシア側は占領地域の子どもたちを「サマーキャンプ」と称して各地へ連れていき、ロシア側の愛国教育のような活動を行っています。初期に連れていかれた子どもたちは、今も帰ることができていません。
いわゆる「ロシアによるウクライナ人児童の連れ去り問題」では、約2万人が認定されています。初期には、学校単位で子どもたちが連れていかれたケースもあります。
連れていかれた子どもたちの一部は、北朝鮮に送られ、ロシアと北朝鮮の友好を掲げた愛国キャンプのような活動に参加させられたり、北方領土に連れていかれたりした例もあります。
小泉先生:「洗脳」という言葉を使えば、ロシア側は反発するでしょう。しかし、実際に行われていることを見ると、価値観を一方的に植え付けるという意味では、洗脳と呼ばざるを得ない面があります。
そして、私たちの身近な話で言うと、まさに北方領土がそのような子どもたちを洗脳するサマーキャンプの場所として利用されているのです。この戦争は決してテレビの中の遠い国のことではないのです。
もちろん、占領地域のすべての子どもが連れていかれているわけではありません。多くの子どもたちは親と暮らし、地域の学校に通いながら生活しています。
しかし、今回ウクライナを訪れて改めて感じたのは、「誰が、誰に、どんな教育をするのか」という営み自体が、これほど生々しい戦いの場になっているのか、ということでした。
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次回、最終回となる3回目では、世界中でさまざまな「思惑」や「正義」が錯綜するなか、子どもたちが事実と背景を見極める「世界の見方」をどう育めばよいのか。ひとりの親として模索する小泉先生とともに、親子で平和に向き合うための視点を考えます。
撮影/葛西亜理沙
取材・文/知野美紀子
『現代戦争論 ──ロシア・ウクライナから考える世界の行方』著:小泉悠(筑摩書房)