『亡くなった皇后に異常な執着』皇帝が棺を開けてまで行った「信じがたい行為」
五胡十六国時代の末期、5世紀初めの中国北方では、いくつもの王朝が興っては倒れる激しい戦乱が続いていた。
その一つに、後燕(こうえん)という国がある。
後燕を建てたのは、鮮卑(せんぴ)系の名将・慕容垂(ぼようすい)である。
慕容垂は384年に後燕を建て、現在の中国東北部から華北にかけて勢力を広げ、その基礎を築いた。
その末子として生まれたのが、後に皇帝となる慕容熙(ぼようき)である。
しかし慕容熙は、父が築いた国を立て直すどころか、女性への異常な執着によって後燕を破滅へ近づけていった。
そしてその執着は、愛した皇后の死後、常軌を逸することになる。
美しき姉妹に溺れた後燕の皇帝
後燕を建てた初代皇帝・慕容垂の死後、皇位は子の慕容宝(ぼようほう)、さらに孫の慕容盛(ぼようせい)へと移った。
その慕容盛が長楽三年(401年)、兵士の反乱によって殺されると、後継者をめぐって宮廷は揺れた。
本来なら別の人物が推される流れもあったが、慕容垂の末子である慕容熙(ぼようき)が、丁太后(ていたいこう)の後ろ盾を得て、後燕の第4代皇帝となった。つまり慕容熙は、前皇帝から見れば叔父にあたる。
この時点から、すでに後燕の宮廷には不穏な空気が漂っていた。
慕容熙は即位後、皇帝としての地位を固めるために政敵となり得る者を次々と排除し、幼い皇族までも殺したという。
そんな慕容熙をさらに狂わせたのが、苻氏姉妹である。
姉は苻娀娥(ふしゅうが)、妹は苻訓英(ふくんえい)といい、前秦の皇族につながる家の出身であった。
『晋書』は、この姉妹について「二苻並美而豔(二人の苻氏はともに美しく、艶やかであった)」と記している。
つまり史書がわざわざ「艶」と書き残すほど、二人には人を惑わせるような美しさがあったのだろう。
慕容熙は、この姉妹を深く寵愛した。
姉の苻娀娥を貴人、妹の苻訓英を貴嬪とし、やがて苻訓英は皇后に立てられ、慕容熙の後宮で最も大きな存在となっていく。
ここまでは、皇帝が美しい妃を寵愛したという、宮廷にはよくある話にも見える。
だが慕容熙の場合は、その愛情が常軌を逸していた。
皇后の望みが国を疲弊させていく
慕容熙の苻氏姉妹への寵愛は、後宮の中だけでは終わらなかった。
『晋書』によれば、慕容熙は龍騰苑という広大な庭園を築かせ、その広さは十里あまりに及んだという。
工事に動員された人数は二万人にもなり、さらに景雲山、逍遥宮、甘露殿など、華やかな建物や池を次々と造らせた。
夏の暑さの中で工事に駆り出された兵士たちは次々と倒れ、半数以上が暑さで死んだが、それでも造営は止まらなかった。
この異常な寵愛は、やがて戦場にも持ち込まれる。
光始5年(405年)、後燕は高句麗の遼東城を攻めて落城寸前まで追い込んだが、慕容熙は兵士たちが先に城へ入ることを許さなかった。
これは、苻皇后とともに輦(れん)に乗り、征服した城へ華やかに入る場面を演出したかったためである。
しかし戦場では、そのわずかな遅れが命取りになった。
高句麗側はすぐさま態勢を立て直し、後燕軍は目前まで迫っていた勝利を逃してしまったのだ。
翌年にも、同じような事が繰り返された。
後燕は契丹(きったん)を攻めたものの成果を得られず、撤退することになったが、苻皇后はそのまま帰ることを望まず、さらに高句麗を攻めることを望んだ。
そこで慕容熙は軍の荷物を捨てさせ、そのまま東へ向かうよう命じたが、この行軍によって兵士も馬も疲れ果て、寒さに苦しみ、道中で死者が続いたという。
さらに彼女は夏に凍った魚を、冬には生の地黄(じおう)を欲しがった。これらは季節外れの品であり、用意できなかった役人は処刑された。
愛する妻を失った皇帝の異常すぎる行動
苻皇后は建始元年(407年)に亡くなった。死因は不明だが、若くして亡くなったとみられる。
姉の苻娀娥もすでに病で亡くなっており、慕容熙の寵愛は妹である苻皇后へいっそう集中していた時期だった。
慕容熙はその死を受け入れられず、遺体を抱きしめて声をあげて泣き、自ら喪服を着て、父母を送る時と同じような盛大な葬儀を行わせた。
だがそれは普通の葬儀ではなかった。
百官は皇后のために泣くことを命じられ、涙を流していない者は罰せられたため、臣下たちは口に辛いものを含み、無理に涙を流したと伝えられる。
しかし、最も異様だったのは別の出来事である。
『晋書』によれば、納棺の後、なんと慕容熙は再び棺を開かせ、苻皇后の遺体と交わったという。
いかに愛する妻との別れを受け入れられなかったとはいえ、あまりに異常な行為である。
その執着は、ついに生者と死者を隔てる一線までも踏み越えたのであった。
葬列の日に起きた王朝崩壊「後燕から北燕へ」
苻皇后の死後も、慕容熙の執着は終わらなかった。
彼は皇后の陵墓を盛大に造らせ、国中の家々から人夫を出させて土を運ばせた。
すでに宮殿や庭園の造営、無理な遠征によって後燕の財政と民力は削られていたが、陵墓の工事にも莫大な費用が投じられ、府庫は空になったとされる。
さらに慕容熙は、高陽王慕容隆(ぼようりゅう)の妻だった張氏に、苻皇后の墓への殉葬を命じた。
張氏は美しく聡明な女性であったとされ、娘たちは母を助けてほしいと泣いてすがったが、慕容熙は聞き入れなかった。
張氏は死を命じられ、苻皇后の墓に従わされることになったのである。
この出来事は、重臣たちにも強い恐怖を与えた。
右僕射の韋璆(いきゅう)らは、自分たちも次に殉葬を命じられるのではないかと恐れ、毎日身を清め、衣を整えて、死の命令が来るのを待っていたと伝えられている。
やがて苻皇后の葬列の日が来たが、棺を載せた車はあまりに大きく、都の北門を通ることができなかったため、慕容熙は門を壊して通すよう命じた。
この様子を見た老人たちは、「慕容氏は自ら門を壊した。長くは続かないだろう」と語ったという。
その言葉通り、慕容熙が苻皇后の葬送に出ている間、かねてから彼に殺されることを恐れていた将軍・馮跋(ふうばつ)らが兵を起こして宮廷を制圧し、かつて慕容宝の養子となっていた高句麗系の皇族・慕容雲(高雲)を新たな王に擁立した。
慕容熙は葬列の途中で、自分の都を失ったのである。
慕容熙は反乱軍を盗賊のように考え、すぐに鎮圧できると思っていたらしいが、ほどなく捕らえられて斬られた。
そして死後、苻皇后と同じ墓に葬られた。
慕容熙の死後、馮跋らが擁立した慕容雲が王位に就いたが、実権は馮跋が握っており、2年後に慕容雲が近臣に殺されると、馮跋が北燕を建てて後燕は事実上終焉を迎えた。
苻皇后への異常な執着は、宮廷の奥にとどまらず、ついには国を滅ぼし慕容熙自身の命まで奪ったのである。
参考 : 『晋書』巻124「載記第二十四 慕容宝・慕容盛・慕容熙・慕容雲」、『資治通鑑』巻114「晋紀三十六」
文 / 草の実堂編集部