「中学校に入っても、息子は学校へ行かなかった…」不登校のまま迎えた思春期
不登校のまま中学校へ進んだ息子。進路のことが現実味を帯びるなか、親の不安は大きくなる一方でした。思春期も重なり、先の見えない日々に戸惑いながら過ごすなかで、少しずつ息子に起きていた変化について振り返ります。
▶︎“みんな同じ”になじめなかった小中学時代を語るタブレット純さんコクリコママライターの一ノ瀬奈津です。
小2の春から始まった息子の不登校は、中学校に入っても続きました。
「まだ先がある」と思えた小学校時代とは違い、中学に入ると「進路」という現実が重くのしかかります。さらに思春期が重なり、腫れ物に触るようなコミュニケーションしかできない日々に、親としての焦りは頂点に達していました。
けれど、25歳になった今の息子を見ると、当時のあの苦しい停滞期のなかでも、見えないところで少しずつ変化が起きていたことがわかります。
先の見えない暗闇のなかで、息子はどのようにして社会とのつながりを取り戻していったのか。彼が少しずつ変わり始めたのは、ある場所での出会いがきっかけだったのです。
社会から置いてけぼりになっていく恐怖
中学入学後の生活は、小学校時代とは大きく変わりました。
小学校では学校とこまめに連絡を取り合っていましたが、中学校の先生との関わりは、どこか淡々としたものになりました。息子のほかにも不登校の生徒が複数いたようで、強く登校を促されることもありませんでした。
担任の先生と顔を合わせるのは学期に1度ほど。ふだんのやりとりは、担任ではなく教務主任の先生が主な窓口になっていました。
家での様子をその都度説明する負担が減り、ほっとした気持ちがあったのは事実です。けれど同時に学校とのつながりが薄れ、息子の存在が社会から少しずつ見えなくなっていくような、なんとも言えない心細さもありました。
息子が学校へ行くのは、テストの日だけ。場所も教室ではなく、校長室です。小学校時代は、放課後に友だちと連絡を取り合って遊ぶこともありましたが、中学生になると、やりとりもほとんどなくなりました。
周りの子どもたちが、部活や友人関係など、それぞれの世界を広げていくなかで、うちの子だけが輪の外にいる。息子だけでなく、私自身も社会から少しずつ遠ざかっていくような孤独を覚えるようになりました。
不登校の中で思春期を迎えたことの難しさ
中学生になり、私が何より戸惑ったのは、息子との距離の取り方です。
部屋に引きこもることはありませんでしたが、もともと口数の多いタイプではなかった息子は、以前にも増して寡黙になっていきました。
息子は思春期に差しかかり、世間から自分がどう見られているか、親やきょうだいにどう思われているかを、以前にも増して気にするようになっていたのだと思います。
話しかけても返ってくるのは、「別に」「わかんない」という言葉ばかり。
けれど不登校という状況が重なっていたことで、私にはそれが思春期によくある変化なのか、苦しさの表れなのか、うまく受け止めることができませんでした。
とくに苦しかったのは、進路のことを話したくても話せなかったことです。中学卒業後のことを考えなければならない時期が近づいているのに、本人が何を考えているのかがわからない。息子は何を不安に思っているのか、どこまでなら話せるのかが見えませんでした。
動き出すタイミングは本人にしかわからない。無理に背中を押して逆効果になるのも怖い。けれど、進路を思うといつまでも待ってはいられない……。「見守る」と「放置する」の境界線がわからず、私は常に揺れていました。
下手に踏み込んで心を閉ざされるのを恐れるあまり、わが子なのに腫れ物に触るような接し方しかできない。そんな自分が情けなく、苦しい時期でした。
適応指導教室で生まれた息子の変化
小学校時代にも、学校以外の居場所として適応指導教室のことは耳にしていました。
けれど当時の息子はまったく関心を示さず、見学や通室にはつながりませんでした。相変わらず登校できない日が続き、「この先、学校にはもう戻れそうにないのかもしれない」と感じ始めた中学時代。
あらためて学校から勧められたのが、適応指導教室でした。
その場所が、息子を少しずつ変えていきました。自治体が運営するその教室には、学年も不登校の理由もさまざまな子どもたちが通っていました。どの子にも「学校という枠組みのなかではうまくやれなかった」という共通点がありました。
最初はマンツーマンから始まり、少しずつグループ活動へ。息子にとっては、久しぶりに「無理をしなくても、ここにいていい」と思える場所だったのだと思います。
転機は、年下のムードメーカーのような男の子との出会いでした。
最初、息子はその子のことを少し苦手に感じていたようです。距離の詰め方が早く、ぐいぐい話しかけてくるタイプだったからです。けれど、その子は息子に気を遣いすぎることもなく、ただ自然に声をかけ続けてくれました。
息子が自分から話しかけなくても、声をかけてくれる友達がクラスにいることが、息子には心地よかったのだと思います。初めのうちは、うまくできなかった会話が少しずつ続くようになり、やがて放課後に一緒に遊ぶようになりました。
気づけば、その子は息子にとって、中学生になって初めての「友だち」と呼べる存在になっていました。
進路を考え始めた息子の変化
友だちができたことで、息子は少しずつ元気を取り戻していきました。それでも、中学卒業後の進路については、しばらく具体的なイメージを持てずにいたようです。
けれど、適応指導教室という居場所で人と関わる時間が増え、気持ちが少しずつ外に向くようになると、「どこの高校に行こうかな」と口にするようになりました。
その言葉を聞いたとき、親としてうれしかったのは、進路を考え始めたこと以上に、息子の気持ちが少しずつ「これからの生活」へ向き始めていたことです。
息子にとって、とても大きな一歩だったと思います。ただ、自分から情報を集めたり、学校を比べたりするところまでは、まだ難しい状態でした。
そこで親が中心になって学校を調べ、最終的には公立の定時制高校を受験することになりました。
子どもと社会とのつながりはスモールステップで
中学校へ登校できずにいた時期の大半は、息子は親やきょうだい以外の人とほとんど関わらずに過ごしていました。
「学校に行っていないのだから仕方ない」と自分に言い聞かせながらも、このまま社会から取り残されてしまうのではないか……という怖さを、私はずっと抱えていました。
思春期の子どもは、親の言葉を素直に受け取れないこともあります。子ども扱いは嫌なのに、自分から助けを求めたり、将来のことを考えたりするのはまだ難しい。
だからこそ親としては「このままで大丈夫なのだろうか」と、なおさら不安になってしまうのです。
実際、社会とのつながりはとても細くなっていたのだと思います。けれど、完全に途切れていたわけではありませんでした。
当時は気づくことができませんでしたが、息子には息子なりに、人と関わるきっかけを少しずつ探していたのだと思います。
わが家にとって、最初の小さなつながり直しの場が、適応指導教室でした。いきなり元の学校生活に戻るのではなく、少人数の安心できる環境の中で、人と関わるところから始まったのです。
思春期の息子にとって、親以外の大人や同世代の子どもたちと関わりながら、自分をそのまま受け入れてもらえる場所ができたことは、とても大きかったと思います。
そうした小さな一歩の積み重ねのなかで、息子は少しずつ外の世界に気持ちを向けられるようになっていきました。
安心できる場所で過ごし、他者と関わる時間を重ねるうちに、進路のことも少しずつ考えられるようになっていったのです。
現在25歳になった息子は、飲食関係の仕事に就き、社会の中で揉まれながらも日々を歩んでいます。
あのころは、「このまま社会から見放されてしまうのではないか」と絶望的な気持ちになる日もありました。けれど、適応指導教室という安全な場所で他者と関わり、小さな一歩を踏み出したことが、確実に今の息子へとつながっています。
学校に行けない時期は、親も子も「この先どうなるのだろう」という不安ばかりが大きくなりがちです。
息子の場合は、将来や進路を考えるよりも先に、安心して人とつながれる場所が必要だったのだと思います。社会との接点を小さく取り戻していくことが、結果として進路を考える土台にもなる、そう実感しました。
親にできるのは、その子と社会の小さな接点が途切れないよう、そっと支えることなのかもしれません。
文・一ノ瀬奈津