現役トロッコの終着駅の先にまだまだ続くレールの正体とは?知られざるディープな貨物線廃線跡へ行こう!
取材日:2025.9.2
text & photo:福島鷺栖
門司港と言えばレトロ建築が立ち並ぶ門司港レトロ地区を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。そんな門司港にも、実はかなりディープな廃線跡が存在しています。今回は観光トロッコ列車「潮風号」の終着駅でもある「関門海峡めかり駅」から先に広がる廃線跡をご紹介していきたいと思います。
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‘18.3.31 北九州銀行レトロライン 関門海峡めかり〜ノーフォーク広場 P:圓山伸宏
(鉄道投稿情報局より)
■終着駅の先に続く線路の正体とは?
トロッコ列車「潮風号」の終着駅である「和布刈(めかり)公園」は関門海峡の一番狭い場所に近く、行き交う船を眺めることも出来る場所にあります。また、有名な関門人道トンネルにも歩いてアクセスできる場所に位置しており、関門海峡を間近に感じられます。そんな和布刈公園は門司港市街地から離れており、なぜそんなところまで線路が敷かれているのでしょうか。その答えは、この路線が貨物線として使われていたからで、休止となった貨物線の線路の一部がこの「潮風号」に活用されているのです。では、その貨物線はどこまでいっていたのでしょうか。辿っていきたいと思います。
ホームの先にも線路が続いている。
和布刈公園から線路に沿って歩くと、トロッコの終着駅からまだレールは続いています。ここからしばらくは「潮風号」の車庫への回送線として使用されているようです。
踏切にはトロッコの運営会社である平成筑豊鉄道の記載があった。この踏切が現役である証拠だ。
■終着駅の先の廃線跡を辿る
「潮風号」の車庫の横には使用されなくなったレールがあり、分岐器も残っていることから、ここが貨物線の拠点であったことが伺えます。それもそのはず、この先の田ノ浦地区にはセメント工場の他にも飼料倉庫などが軒を連ねており、全盛期には複数の専用線が分岐する臨港線が広がっていました。後年は、臨港線内にも本線牽引機であるDD51が直接乗り入れていたようですが、臨港線内用の牽引機が在籍していた時期もありました。その当時はグリーンのDD13タイプのものが配置されていたようです。実はその当時の車庫が「潮風号」の車庫の裏に残っていました。
自動車用の車庫としては天井と入口が高い。鉄道用の車庫特有の造りが見て取れる。
まだまだ、ディープな廃線跡は続きます。さらに、この車庫の裏にはレールが残されており、これは、元農水省の倉庫への引き込み線の跡となっています。
元農水省の倉庫敷地に残る踏切警報機。この前に貨物線が通っていた証拠となる。(敷地外から撮影)
倉庫の横を突っ切る形で廃線跡は続きますが、現在は民間会社が使用しており、敷地内の痕跡はかなりなくなってはいるものの、ところどころにしぶとく残っている箇所もあります。敷地内に残された踏切などがまさにそれです。元農水省の倉庫の敷地を迂回する形で進んでいくと、突然線路が現れます。踏切部分は埋められてしまったようですが、線路はしっかり残っています。ここから田ノ浦港へは一部の線路が残っています。
踏切部分はアスファルトで固められているが、鉄道用地内の線路は現存している。
しばらく、線路沿いに歩いていくと大きな交差点に差し掛かります。ここの踏切は線路も残っており、現役の貨物線のような雰囲気が漂っています。ちなみに、この臨港線は2004年3月まで運行されていました。現役当時はここをDD51牽引のセメント列車が音を立てながら走っていたことでしょう。末期は門司機関区所属のDD51が運用に入っており、平成筑豊鉄道の金田駅からのセメント列車が運行されていましたが、その終了とともにこの貨物線も休止となったようです。
線路は田ノ浦港へ続いていく。現役当時であれば撮影もできたであろう。
途中、分岐器の跡が残る。DD51はこの分岐器を分岐側に進み、道を渡った先にあるセメント工場へ入っていった。
運行終了から20年経った今なお、数多くの痕跡が残り、現役当時の雰囲気を感じることが出来るもう一つの門司港レトロ。これを機にぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。また、和布刈公園から下関に渡るとさらにディープな廃線跡をめぐることも出来ますが、それはまたの機会に紹介していきたいと思います。
1970年代の現役当時の航空写真。田ノ浦港の端まで線路が続いていたことがわかる。引用元:国土地理院撮影の空中写真(1975年撮影)