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イギリスの「禁煙法」は行き過ぎなのだろうか。

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イギリスの「禁煙法」は行き過ぎなのだろうか。

イギリスの「禁煙法」

イギリスで「禁煙法」のようなものが可決された。そんなニュースがあった。

英下院、たばこ販売禁止法案を可決 2009年以降生まれを対象に

イギリスの下院は16日、2009年1月1日以降に生まれた人が生涯にわたってたばこ製品を買えなくする法案を可決した。

リシ・スーナク首相が主導した「紙たばこ・電子たばこ法案」は、383対67の賛成多数で下院を通過した。首相経験者を含む複数の与党・保守党幹部が反対票を投じた。

施行された場合、イギリスのたばこ規制法は世界で最も厳しい部類のものとなる。

似たような法律がニュージーランドで先行して施行され、その後に撤回されたとかあったが、とにかくイギリスはこのような道を選んだ。


おれはたまたま倫理学入門の本を読んでいたので、「これは倫理学が取り扱う問題だな」と思った。とくに児島聡『実践・倫理学』においては第5章が「他者危害原則と喫煙の自由」だ。まさにたばこの問題を取り扱っている。

これをもとに、今回のイギリスの禁煙法や、ほかの依存症への自由とパターナリズムについてちょっと考えてみたいと思う。


おれとたばこ、たばことおれ

まず、おれとたばこについて書いておく。


もう時効になるというか、自分の嗜癖を告白するのにごまかしはよくないことだろう。おれがたばこを吸い始めたのは18歳、大学1年生のときだった。

生来、友だちを作ることが不得手なおれは、「たばこを吸っていれば一人でいる理由になる」というように考え、大学で吸い始めた。そのせいで、話をするようになった同級生が一人できたが。


吸っていたのはJTが出していたジタン120Sという銘柄だった。おれは昔F1を見ていて、そのなかのリジェというチームが車体にジタンのトレードマークであるダンサーの絵を入れていて、「かっこいいな」と思ったものである。

とっくの昔にF1でのたばこの広告は禁止された。若者が見て影響があってはいけないということだろう。そんな影響はあるのだろうか。おれにはあったわけだが。


そのジタンがなくなった。廃番だ。おれはついでジョーカーというタバコを吸い始めた。ニコチン、タール量が凶悪な、茶色くて細長いたばこだ。このジョーカーも、なくなった。


その次が見つからなかった。キャメルとか、アメスピとか、中華街の自販機で売っていたハーブたばこ(ニコチン、タールフリー。合法品。ただ、警察官の親戚の前で吸っていてたら「大麻っぽい匂いがするな」と言われた)とか……。


どうも興味が失っているところに、増税がきた。金のないおれは、さっぱりたばこを辞めてしまった。

ニコチン中毒、たばこ依存症ではなかったのかもしれない。それから20年以上、吸っていない。ヘビースモーカーである弟(チェリーを吸っていたので、おれと同じく銘柄難民になった)から10年に一度くらい1本恵んでもらうこともあるが、「たばこってこんなんだっけ?」というくらいのもので、再開もしない。


副流煙はずっときらいだった

家庭環境はどうだったか。父親がたばこを吸っていた。副流煙は大嫌いだった。父親はたまに禁煙したりするが、また始めたりを繰り返し、結局はどうだったのだろうか。

おれがたばこを吸い始めたときには、母から「あんたは副流煙を嫌がっていたから、自分で吸い始めるとは思わなかった」と言われた。


いや、喫煙者も副流煙は嫌いだよ。他人が吐いた煙なんてくさくて、鬱陶しくて、嫌になる。そりゃあ大井競馬場なんかに行って、鉄火場に流れるたばこの匂いなんかをかぐと「競馬場きてるな」みたいな気持ちにはなるが、そんなものだ。

とくに飯のときなど、他人のたばこの煙なんて最悪だ。おれは飯のあとに、たばこを吸った。そういう習慣だった。でも、飯の場では吸わなかった。飲み屋とかには行かなかったのでわからない。


その副流煙については、くさい、むせるというだけでもないと言われるようになった。今では当たり前だが、具体的に語られるようになったのも20年前くらいからじゃないだろうか。受動喫煙の問題といったほうがいいのか。

たばこの煙と受動喫煙 _ e-ヘルスネット(厚生労働省)

たばこの煙には、喫煙者が吸う「主流煙」、喫煙者が吐き出した「呼出煙」、たばこから立ち上る「副流煙」があり、受動喫煙では呼出煙と副流煙が混ざった煙にさらされることになります。煙に含まれる発がん性物質などの有害成分は、主流煙より副流煙に多く含まれるものがあり、マナーという考え方だけでは解決できない健康問題です。

あ、すみません、おれ、喫煙者が吐き出したものを「副流煙」だとずっと思っていました。というか、上に「副流煙」と書いたのもそれですわ。

「呼出煙」というのか。知らなかった。知らなかった衝撃を共有したいので、上のは直さないでおきます。「環境たばこ煙」なんて言葉も初めて見た。今日はこれだけでも覚えて帰ってください。


で、マナーだけではなく健康問題、ということになる。

受動喫煙 – 他人の喫煙の影響 | e-ヘルスネット(厚生労働省)

受動喫煙との関連が「確実」と判定された肺がん、虚血性心疾患、脳卒中、乳幼児突然死症候群(SIDS)の4疾患について、超過死亡数を推定した結果[1]によると、わが国では年間約1万5千人が受動喫煙で死亡しており健康影響は深刻です。

とはいえ、まだJTは完全降伏していないようだ。国立がん研究センターにガンガン攻められている。これが消えていないということは、JTの見解も変わっていないのだろう。

受動喫煙と肺がんに関するJTコメントへの見解|国立がん研究センター

JTコメントは、国立がん研究センターが行った科学的アプローチに対し十分な理解がなされておらず、その結果として、受動喫煙の害を軽く考える結論に至っていると考えられます。これは、当センターとは全く異なる見解です。

国立がん研究センターの見解を、科学的な立場から改めて提示します。

しかしなんだろうか、ここはどうも「受動喫煙」という害がある。「環境たばこ煙」を出すことは他者を危害する行為だと前提したほうがよいだろう。

『実践・倫理学』でも受動喫煙については保留付きで「周囲の人間に害をもたらす前提」で話が進められている。


他者危害原則

さて、倫理学からたばこ問題を見ると、ミルを見るということになる。J.Sミルだ。

彼は「文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止」であり、「個人は自己の行為について、それが自分意外の人間の利害に関係しない限り社会に対して責任をとる必要はない」と述べ、自由主義の根本的原則を定式化した。
『実践・倫理学』

「環境たばこ煙」が危害にあたるのであれば、権力の力によってそれが制限される、というのが当たり前ということになる。


しかしまあ、『実践・倫理学』には「環境たばこ煙」が危害にあたらないとされていた時代の文例が出ていたのだが、これがすごい。伊佐山芳郎『現代たばこ戦争』という本からの孫引きになるが、こんなことが当時は言われていた。

職場で同僚の吸うたばこの煙に悩んでいるOLの人生相談に対して、小室氏(評論家の小室加代子氏)は次のような回答を寄せた。「本当はそんなにいやなら、会社をやめたらいいのです。私があなたの上司なら、そういいますよ。隣のオジサンは、ニコチン中毒であろうとあなたよりは会社に貢献してきたのです」「間接喫煙ぐらいでシボむような花ならポイですよ」「あなたはニコチン中毒よりも、もっとしまつの悪い一流中毒者のようですね」
『実践・倫理学』

……こんなの令和どころか平成の時代であっても大炎上確実であろう。でも、「嫌煙権」という言葉が生まれた40年前くらいはこんな認識であった。

なるほど、他人のたばこの煙は心地よいものではないにせよ、明確な危害からは程遠かった。おれも昭和の人間だが、物心ついたころにここまでの喫煙主義はほとんど見たことはない。


いずれにせよ、喫煙についてこのような論は見られなくなった。ミルの原則が完全に正しいとか、世間に受け入れられているスタンダードであるとは言えないだろうが、基本的には他人に害を与えてはならんというのが通る。


私的空間での喫煙はどうか

とはいえ、もしも喫煙者が完全な個室でただ一人吸うだけで、一切他者にたばこの害を与えないとしたらどうだろう? たばこの害を受けるのは喫煙者そのひと以外にいない。ミルはこのように述べる。

[行為者当人の幸福は、それが]物質的なものであれ精神的なものであれ、[その人の自由を制約する]十分な正当化となるものではない。そうするほうが彼のためによいだろうとか、彼をもっと幸福にするだろうとか、他の人々の意見によれば、そうすることが賢明であり正しくさえあるからといって、彼に何らかの行動や抑制を強制することは、正当ではありえない。

『実践・倫理学』

ちなみに著者の児玉聡は、ミルが「助言や説得はいいんだよ」みたいなことも言っていると書いている。ただ、究極的なところでパターナリズムによる強制を否定している。


というわけで、私的空間での喫煙まで禁じる今回のイギリスの禁煙法は行き過ぎなのだろうか。BBCの記事には法案への反対意見が掲載されていた。

投票では、リズ・トラス前首相を含む何人かの保守党議員が、個人の自由を制限するとして法案に反対票を投じた。

トラス氏は、この法案は人々を幼児化させる危険性があると下院で述べた。

「人が成長する過程で意思決定ができるようになるまで、彼らを保護することは非常に重要だ。しかし大人を自分自身から守るという考え方は非常に問題だと思う」

閣僚経験者のジェイク・ベリー卿は、ニコチン中毒者のことよりも、「政府が人々に何をすべきかを指示する中毒性」を懸念していると語った。

「私は、良い決断も悪い決断も自由にできる自由な社会に住みたい」

これは、J.S.ミル的な自由論に立脚しているように見える。「悪い決断」には他者を危害する自由まで含まれていないだろう。

ちなみに、「人が成長する過程で意思決定ができるようになるまで」とあるが、ミルも「子どもや『未開人』にはパターナリスティックな介入が許される」と考えていた。いわゆる「愚行権」を使えるのは成人である。


私的空間における喫煙まで禁止する理由

とはいえ、イギリスにおいては生年による区別はあるとはいえ(いずれ時が経てば「全員」になるわけだが)、禁煙法が成立した。

どのような意見によるものであろうか。『実践・倫理学』には私的空間における喫煙を制限すべきだという意見が紹介されていた。オーストラリアの哲学者であるロバート・グッディンという人の意見だ。

グッディンによれば、喫煙に関しては、このインフォームド・コンセントが成り立っていない。なぜなら、第一に、喫煙者は喫煙の害悪について十分なリスクが知らされておらず、第二に、たとえ知らされていたとしても、喫煙は依存性が強いために、自発的な同意をしたと言えないからだ。したがって、喫煙者の同意は有効ではなく、政府は彼らを喫煙の害悪から守る義務がある。
『実践・倫理学』

ちなみにグッティンさんは単に規制を主張しているわけではなく、「自由を尊重した仕方」で禁煙政策を比較検討すべきだとしている。


で、これに近い意見が、BBCの記事で紹介されていた。

ヴィクトリア・アトキンス保健相は「依存症に自由はない」と、法案を擁護。「たばこのない世代」を作り出すと説明した。

また、「物事を禁止する」ことへの懸念は理解できるとしながらも、 「ニコチンは人々の選択の自由を奪う」ものだと指摘した。

「喫煙者の大半は若いときに喫煙を始め、その4分の3は、もし時間を戻せるなら喫煙を始めなかったと言う」

ここにおいて、依存症者はJ.S.ミルの言う「子ども」や「未開人」と同等の扱いになる。依存症者はインフォームド・コンセントを受けられると言えない存在となっている。


2009年1月1日より前に生まれた人間についてはどうなのか? という法の組み立てや、それに関する倫理学的な見解というのは正直わからない。

わからないが、「依存症に自由はない」ということだ。自由にさせない、ということではなく、「自由な選択が奪われている」ということになる。


なるほど、そういう考え方もあるだろう。だが、しかし、どうなのだろう?


あらゆる依存症にも自由はないのか?

ニコチン依存症の度合いは強めだ。かなり強い。あっさりやめられたおれは実体験として語れないが、そういうことになっている。


では、ほかの依存症はどうなのか。代表的に挙げられるのがアルコールということになる。おれはアルコール依存症疑いが強い。

でかいペットボトルの焼酎を買う人間の末路 _ Books&Apps


このおれが言うが、アルコール依存症も強い。強い上に、身体や精神への害が大きい。

他者危害でいえば、アルコール飲用者による家庭の破壊や、単純な暴力、飲酒運転などの事故を考えると、たばこの比ではないように思える。もちろん、WHOなどもたばこの次はアルコールだと考えているだろう。


「お酒は人類の文化だから」などという言い訳は通用しない。たばこも文化だった。極端なことをいえば奴隷だって文化だと言える。中東などの未婚女性の性交渉における「名誉の殺人」の因習を「文化だから」と認められるだろうか。

認められる文化というものは、時代とともに移り変わる。「文化だから」は通用しない。いずれアルコールもだんだんと規制されていき、「依存症に自由はない」と禁酒法がふたたび成立する時代がくるかもしれない。


さて、問題は物質使用障害だけにとどまるだろうか? 嗜癖行動についても、同じく「依存症に自由はない」と言われないとも限らない。たとえば、ゲーム依存。

もしも「ゲーム障害」が本当にあったら _ Books&Apps


まだかつての嫌煙論的に議論の最中ではあるが、ゲーム障害もそれを依存症と考える専門家がいて、その議論もなされている。

なんなら、「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」みたいに、先走った事例がある。「ネット・ゲーム依存症に自由はない」と言われる日だって、あながち空想とはいえない。


さて、そんな日が来そうになったとき、ゲーム好きはどうするべきだろうか。あるいは、今、どうするべきだろうか。

ゲーム好きの人が「おれはたばこが嫌いだからたばこは完全に禁止してしまえ」と考えることもあるだろう。おれだって、なんにも考えない単純な感覚でいえば、べつにたばこが完全非合法になったところで困らないし、むしろ歓迎したいくらいだ。とはいえ、だ。

(ところでこのあたりで「ニーメラーの警句」を思い出す人がいるかもしれないけど、ナチスが社会民主党を攻撃したとき、ドイツ共産党がナチスと共闘して社会民主党を攻撃してたって知ってた?)


「私は、良い決断も悪い決断も自由にできる自由な社会に住みたい」という言葉には、一つの価値がある。だからといって、嗜癖と呼ばれうる趣味をもつ人間がたばこの規制に反対するべきであるとは言わない。

たとえばゲーム依存症の他者危害はなにか? という話にもなる。そういう話にならなければならない。


パターナリズム的なものを単に「パターナリズムだ」と批難するだけでは終わらない。人間がなにをもって、どこまで自由でいられるか。これはつねに問われ続ける問題だ。時代とともに移り変わるものでもある。

倫理学者の加藤尚武は「許容できるエゴイズムの限度を決めること」を倫理学の課題だとしたが、倫理学は現実社会、そして法につながるものだ。好き嫌いだけでなく、いろいろ考えておいて損はない。そのように思う。


とりあえずおれは、ギャンブル依存症の対象であり、動物虐待ともされ、人馬ともに競技者の命にも関わるというかなりやばい「競馬」というものをどう弁護するか考える。……勝ち目は薄そうだが。

***


【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Mathew MacQuarrie

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