ヒット曲のない作詞家・なかにし礼と売れない歌手・菅原洋一が喧嘩しながらレコーディングしたB面曲「知りたくないの」の大ヒットで二人の人生は変わった
こともあろうに、一躍スターダムに乗った人気歌手を「3日前のハンバーグ」と紹介したのは、「マエタケ」こと前田武彦だった。1968(昭和43)年11月に誕生したフジテレビの音楽番組「夜のヒットスタジオ」は、人気歌手が多数出演する生放送番組で、司会のマエタケが初出演の菅原洋一に付けたニックネームである。放送作家でナンセンスギャグが得意のマエタケとそれを受け止める芳村真理との司会は絶妙だったが、すでに1967(昭和42)年のNHK紅白歌合戦に「知りたくないの」で初出場している菅原洋一を、「3日前のハンバーグ」とは笑えないギャグも甚だしい。確かに、丸顔で細い目が特徴の愛嬌のある顔立ちの菅原は、ハンバーグ似だった。というより20年後にブラウン管に登場してきたアニメ「アンパンマン」にも似ていて驚かされたのを覚えている。余談続きだが、TBSの人気の音楽番組「ザ・ベストテン」の放送開始はほぼ10年後の1978(昭和53)年1月、音楽シーンもがらりと変わっていたが、こちらは久米宏、黒柳徹子のスピード感あふれる掛け合いの司会ぶりに定評があった。
司会のマエタケが「3日前」と紹介したことにこだわるわけではないが、菅原洋一のデビューまでの雌伏の期間を揶揄したのではないか、と思えなくもない。昭和の時代ハンバーグといえばご馳走で、誰もが大好きなのになかなか食卓に出てこない。3日前とは〝遅れて出てきたハンバーグ(菅原)〟という思いを表現したのではあるまいか。
歌唱力が十分あって、低音の幅は広く、甘くソフトな声質も特徴があり歌もうまい。何しろ国立音楽大学を卒業してきた筋金入りである。しかし、何枚もリリースした曲がありながら、消えてゆく歌手は枚挙にいとまがなかった過酷な競合の世界のこと。発売したもののヒット曲がなく、そのまま埋もれてしまう大勢の歌手の一人になりかねない瀬戸際に、菅原洋一はいた。売れない歌手のレッテルを貼られて、ポリドール・レコードのお荷物になって専属歌手としては整理対象だったのだ。社歌や校歌など委託レコードの歌手として、辛うじてベンチを温める日々が続いていた。
しかし満を持していた菅原にラスト・チャンスが1964(昭和39)年に巡ってきた。フランスでヒットしていたシャンソン「恋心」(作曲:エンリコ・マシアス)をレコード各社が競作することになり、ポリドールも手を挙げた。この企画に、かねてからその声質を買っていた女性ディレクターが菅原を抜擢したのである。他社では、永田文夫の訳詞を岸洋子が歌い、岩谷時子の訳詞に越路吹雪が歌うという錚々たる布陣。ポリドールといえば、フリーの新人ながらシャンソンの訳詞で細々と暮らしていた立教大学在学中(留年中?)のなかにし礼の起用を企てた。
さて、A面は「恋心」と決まってはいるが、B面がなかなか定まらない。なかにし礼、女性ディレクター、菅原洋一、所属していた事務所のマネージャー小澤淳らのディカッションが続いた。そこで小澤が是非と推したのは、アメリカのウエスタン歌手エディ・アーノルドが歌ってヒットしていた「たそがれのワルツ(原曲 I really don’t want to know)」だった。ワルツ・テンポの美しいラブソングを、菅原も耳にしていて気に入っていた。
「これまで何人の男性があなたを抱いたことだろう。気になることだが、本当のことは知りたくない。これまで、何人の男性があなたに口づけをし、心を燃え立たせたことだろう。いつも気になっているが、私が聞いても言わないでほしい…」
という意味の歌詞だった。著作権元の「指定訳詞」は、もっとつまらない言葉の羅列だった。なかにしはフランスの詩の訳から音楽の世界に入ってきただけあって、語彙が違っていた。女性ディレクターは、一度はダメだしするが、原詩の無駄な言葉を削いできた第二稿に大きく頷いた。
なかにしは、〝あなたの過去など 知りたくないの〟とした。原曲のタイトルの「知りたくないの」は、メロディーにフィットしていることからそのまま生かし、原詩に背いて「あなたの過去など」というフレーズが浮かんだ。「あなたの過去」で全てを物語っていて、後は一気呵成に書き上げたのだった。「過去」という言葉はこの楽曲の肝心要になった。ところが、なかにしが意気揚々とレコーディングに臨むと、「過去という言葉は歌いづらい」という菅原からクレームが入った。なかにしは譲れなかった。これが使えないならこの詞のすべてはなくなる、とまで言い切った。スタジオは喧嘩腰の二人の言い合いに緊張し、レコーディング本番は翌日に持ち越した。結局、菅原が折れて和解。後日、「〝過去〟など知りたくないの、は確かに殺し文句だった」と、なかにしの主張を肯定している。菅原は、2016年NHK「うたコン」に出演した折、「『知りたくないの』を歌ってから60年近くたちますが、過去という言葉こそあの歌を生かしてくれる大事なフレーズでした。今でも新鮮に歌えるのはこの言葉があったからです」と語っていた。
そうまでした「知りたくないの」は、B面の楽曲の宿命で、発売当初は注目されず、有線放送のリクエストが頻繁になってレコードの売上げに及ぶのは2年、3年を要した。ポリドールは、「恋心」がキングの岸洋子、東芝の越路吹雪と競ったものの惨敗しているのを横目に、添えものだったB面の「知りたくないの」が静かに売れ始めるとA面とB面を逆転させたのだった。これがビッグヒットにつながったのである。
かくて菅原洋一は実力派といわれるような人気歌手となるのに雌伏8年、なかにし礼は立教大学に8年間在学しながらシャンソンの訳詞をしていたが、「知りたくないの」が契機となって飛ぶ鳥を落とす勢いの作詞家となっていった。
「知りたくないの」のヒットと合わせて、1967年には「霧のかなたに」(黛ジュン)、「恋のフーガ」(ザ・ピーナッツ)などで日本レコード大賞作詞賞を受賞。翌68年には「愛のフィナーレ」(ザ・ピーナッツ)、「花の首飾り」(ザ・タイガース)、「愛のさざなみ」(島倉千代子)、「愛する君に」(ザ・ゴールデン・カップス)、69年「天使の誘惑」(黛ジュン)で第10回日本レコード大賞受賞し、「くちづけが怖い」(久美かおり)、「誰もいない」(菅原洋一)と立てつづけてヒット曲を世に送った。さらに、「夜と朝のあいだに」(ピーター)、「エメラルドの伝説」(テンプターズ)、「愛ある限り」(吉永小百合)、「恋の奴隷」「恋狂い」「恋泥棒」(3曲奥村チヨ)、「バラ色の月」(布施明)、「港町ブルース」(森進一)、「人形の家」「私が死んだら」(2曲弘田三枝子)、「不思議な太陽」「雲にのりたい」(2曲黛ジュン)、「君は心の妻だから」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)等々と続いている。昭和41年から45年の間、なかにし礼作詞のヒット曲を数え上げればキリがない。この中で、「人形の家」「君は心の妻だから」「港町ブルース」はミリオンオンセラーを記録。菅原洋一が歌唱した「誰もいない」は、日本レコード大賞の歌唱賞、久美かおりの「くちづけが怖い」は新人賞を獲得し、トリプル受賞といった具合。1970(昭和45)年には、再び菅原洋一が歌い大ヒットした「今日でお別れ」が、第12回日本レコード大賞受賞曲となった。その後のなかにし礼の作詞家としての業績は後に譲るが、1989(平成元)年石川さゆりが歌唱した「風の盆恋歌」(作曲・三木たかし)を最後に、作詞家から軸足を作家活動に移している。まさに昭和に生まれ昭和を生きた作詞家だった。
一方、菅原洋一は「知りたくないの」で第18回NHK紅白歌合戦に初出場以来、1988(昭和63)年の第39回まで連続22回出場を果たした。1958(昭和33)年、タンゴ歌手としてデビュー、クラブで歌い前座歌手を引き受けながら歌手生活をスタートした。雌伏8年を経て昭和の時代の歌謡界をリードし、平成から令和の今日まで現役歌手として歌いつづける謙虚の塊のような大御所は、1933(昭和8)年生まれ、92歳である。
文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫