なぜ哲学・倫理学は男ばかりなのか──『哲学史入門Ⅳ』
なぜケアの倫理が必要なのか
第一人者とのインタビュー形式で、哲学史の流れと論点を大きくつかむ“まったく新しい入門シリーズ”『哲学史入門』が、読者の皆様の声により、ついに再始動!
2025年9月10日発売のシリーズ第4巻『哲学史入門Ⅳ 正義論、功利主義からケアの倫理まで』では、倫理学を学ぶ意味から、功利主義、正義論、ケアの倫理など、複雑極まる現代を私たちがどう生きるべきか、正しさとはなにかを考えさせる「倫理学」の魅力を幅広く伝えます。
人文ライターの斎藤哲也さんが、古田徹也さん、児玉聡さん、神島裕子さん、立花幸司さん、岡野八代さん、ブレイディみかこさんというトップランナーと向き合う本書より、岡野八代さんが指南役を務める第4章「なぜケアの倫理が必要なのか──「土台」を問い直すダイナミックな思想」を一部公開します。
聞き手:斎藤哲也
なぜ哲学・倫理学は男ばかりなのか
──最初に、ぜひ岡野さんにお聞きしたいことがあります。哲学や倫理学の世界は、圧倒的に男性が多いんですよね。自戒も込めて言いますが、入門書などで取り上げられる哲学者も、ほとんどが男性ばかりです。この点について、岡野さんはどうお考えですか。
岡野 おっしゃるとおりです。いまでこそ少しずつ変わってきてはいますが、哲学や倫理学が男性ばかりの領域になっていることには少なくとも二つの大きな理由があると思っています。これは哲学者の方々にもよく話すのですが、一つは、女性の哲学者がいなかったわけではないけれど、彼女たちの仕事を引き継ぐ継承者がいなかったということです。
たとえば、メアリ・ウルストンクラフト(一七五九―九七)のように彗星のごとく現れた女性もいました。ただ、彼女たちの思想は揶揄や抽象にさらされるなどし、哲学の主流にはなりづらく、語り継がれなかった。これは制度も大きな原因になっていました。
長らく女性は高等教育から排除されてきました。この空白の影響が非常に大きい。日本でも、東大に初めて女性が入ったのは一九四六年で、そんなに昔の話ではないでしょう。八〇〇年以上の歴史を誇るケンブリッジ大学やオックスフォード大学があるイギリスでは、女性専用のカレッジが創設されるのは、一九世紀の後半です。オックスフォード大学に正式に入学が認められる一九二〇年まで学内には、映画『ハリー・ポッター』の舞台ともなった有名なボードリアン図書館はじめ女性が入れない場所も多かった。女性の高等教育が進んでいたといわれ、セブン・シスターズと呼ばれる名門カレッジが一九世紀に相次いで設立されたアメリカでも、アイビーリーグのなかでもっとも創立の遅いコーネル大学は最初から共学でしたが、ハーバードやイエール、ニューヨーク大学などの共学化は第二次世界大戦中に始まり、コロンビア大学にいたっては一九八三年にようやく完全共学化されます。
──そんなに最近まで……。
岡野 そうなんです。制度的に女性が排除されていた時代が長かった。その影響で継承者がいないというのが理由の一つ。もう一つは、哲学という学問がもつ特性にあります。
たとえば、論理哲学や分析哲学のように非常に抽象度が高く、普遍性を目指す学問体系は、どんな状況でも通じる理論を求めるわけですよね。私自身、「認識のあり方を問うのに、性差は関係あるの?」と問われて、答えに詰まったことがあります。
近年は、「認識的不正義」のような議論もあって哲学の「知」のあり方について問い直しが始まっています。これは、社会的に置かれた立場や役割によって、発言力や発言に対する信用度が異なるために、社会的に共有される知識のあり方や、ある事象の解釈の仕方が歪んでいるという問題ですね。ともあれ、それでも哲学が目指す「知」のあり方そのものが、私が専門にしている政治思想史とはやっぱり少し違う気がするんです。
哲学は世界の認識の仕方を抽象的に論じたりして、まるで「超人」の視点から世界を見るようなところがある。でもそのやり方では、女性たちが実際に知りたいことや日常悩んでいること、たとえば身体に関わることを扱えなかったりする。もし、それらのことを「土台」として、その上に「超人が立っている」としたら? それなら、哲学が扱わない土台のほうをこそ問うべきだと、女性たちは思うのではないでしょうか。女性を哲学から遠ざけたもう一つの理由はここにあると思います。
私も、だから土台のほうに関心をもっています。政治思想も女性が少ない分野ですが、哲学のほうがさらに女性研究者にとっての困難は大きいと、いまなお感じます。制度的に哲学・倫理学はずっと男性中心で継承されてきましたし、私も、フェミニストとしての思想を学ぶために哲学科に行こうとは思わなかった。今日のテーマにもつながりますが、ケアの倫理が広まって、ようやく女性が哲学に入っていけるようになったという印象ですね。
「修飾語なしのフェミニズム思想」が誕生するまで
──うまく本題とつなげてくださってありがとうございます(笑)。そのケアの倫理のことを、岡野さんは著書『ケアの倫理』のなかで「修飾語なしのフェミニズム思想」と評しています。ここには、リベラル・フェミニズムやマルクス主義フェミニズムなどのように、既存の思想からフェミニズムを展開するのではなく、フェミニズムの思想と実践じたいから生まれたのがケアの倫理なんだという含意があると思うのですが。
岡野 そのとおりです。リベラル・フェミニズムというのは、ロック(一六三二―一七〇四)やロールズ(一九二一―二〇〇二)といった近代のリベラル思想の延長線上にありますよね。彼らの理論を前提にして、普遍的な人権概念を女性に拡張していく。マルクス主義フェミニズムも、マルクス主義を読み直すことで男性中心の思想を批判していくわけです。
でもケアの倫理はそうした既存の思想の枠組みに依拠しない。女性たち自身の経験から、女性たち自身の言葉によって編み出された思想です。もちろん、他のフェミニズムの主張も女性の経験をもとにしているんですが、ケアの倫理の経験への根ざし方は、やはり特別だと思っています。
──リベラル・フェミニズムは第一波フェミニズムの主流で、その後、ラディカル・フェミニズムやマルクス主義フェミニズム、ケアの倫理が第二波フェミニズムのなかで生まれたという整理は適切でしょうか。
岡野 フェミニズムを第一波、第二波という仕方で整理すると、どうしても単純化されすぎるきらいがあります。教科書的には、第一波フェミニズムは主に参政権を求める運動、つまり、男性と同じ公的権利を得るための運動として位置づけられますよね。法律を変える、制度を整えるというような、いわば形式的平等を求めていた。
その後、「それでもまだ平等にならないのはなぜ?」という問いとともに、家族のあり方やセクシュアリティといった、もっと個人的な領域が問題として浮かび上がってきます。これに対して起きた運動が第二波だというふうに整理されますが、私は、第二波のスローガンとして有名な「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」というメッセージは、それ以前からフェミニズムの根底に流れていると思っています。
第一波のサフラジェット(女性参政権論者)たちも、単に形式的な平等を求めて制度を変えようとしていたわけではない。自分たちに「生殖の自由」がなく、家にいなければならなかったり、就職の機会がなく家庭教師をやるくらいしか仕事がなかったりするようななかで、「なぜ自分たちの人生はこんなにも制限されているのか」と疑問を抱いていたのですが、彼女たちのこうした個人的な状況は、政治的な力によって規定されていたわけです。フェミニズムが問題にすることは、ほんとうはずっと社会の問題でした。それが「女の問題」とされて、抱え込まされてきたわけですね。
第一波と第二波の違いは、社会の問題のどこにアプローチしたかの違いです。第一波は啓蒙思想やリベラル思想に立脚して、「自分にも職業選択の自由や表現の自由があるはずだ」「政治的にも平等な権利を」と訴えた。でも、運動を支えていたのはリベラリズムだけではなかった。背景には労働問題がありましたから、社会主義の考え方も強く働いていました。ですから、「第一波はリベラル、第二波はラディカル」と単純に区切って捉えるよりは、それぞれが置かれていた時代の状況と、そのなかで取り組むべき優先問題が違っていた、というふうに理解したほうがいいでしょう。
『哲学史入門Ⅳ 正義論、功利主義からケアの倫理まで』では、
・倫理学に入門するとは何をすることなのか
・現代に生きる功利主義――誰もが幸福な社会を目指して
・義務論から正義論へ――カントからロールズ、ヌスバウムまで
・徳倫理学の復興――善い生き方をいかに実現するか
・なぜケアの倫理が必要なのか――「土台」を問い直すダイナミックな思想
・「地べた」から倫理を考える
という6章構成で、倫理学の魅力とその可能性に迫ります。
立花幸司
1979年、東京都生まれ。千葉大学文学部准教授、ジョージタウン大学メディカルセンター国際連携研究員。東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻博士課程修了。熊本大学大学院文学部准教授などを経て現職。博士(学術)。専門は古代ギリシア哲学、現代徳倫理学。編著『Alternative Virtues』(Routledge)、『徳の教育と哲学』(東洋館出版社)など。
斎藤哲也
1971年生まれ。人文ライター。東京大学文学部哲学科卒業。著書に『試験に出る哲学』シリーズ(NHK出版新書)、監修に『哲学用語図鑑』(プレジデント社)など。