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妖怪も人間も、自然とともに生きている――【連載】奈倉有里「猫が導く妖しい世界」#13

NHK出版デジタルマガジン

妖怪も人間も、自然とともに生きている――【連載】奈倉有里「猫が導く妖しい世界」#13

この連載では、スラヴの昔話からやって来た物知り猫“バユーン”が、ロシア文学研究者・奈倉有里さんとともに皆さんを民間伝承の世界へとご案内します。
今回はどんな不思議に出会えるでしょうか?
※2026年度『まいにちロシア語』テキスト4月号より抜粋
(スラヴ:ロシアやウクライナ、ポーランド、ブルガリアなど、ヨーロッパ東部から北アジアに広く分布する、スラヴ系諸語を話す人々の暮らす文化圏)

第十三回 春の水の声がする

水の季節

 ぽた、ぽた、ぽた、と雪がとける。町のあちこちで水の音が響き続ける。春はあたり一面、水だらけになる。外を歩くと湿った土のいい匂いが漂っている。これから作物が育っていく香りだ。妙にそわそわする。
 寒がりのバユーンもようやく家から出て、散歩についてくるようになった。すぐ横の塀の上を歩いたり、先に走って植え込みのなかに入ったり、ときには視界から消えたりしつつ、泥水を踏まないようについてくる。
 長靴を履いて遠慮なく水たまりを踏みながら進む私を横目で見ながら、バユーンは「春の水には要注意だよ」と語りはじめる。お、さてはまた妖怪の話だな。
 案の定、駅前の公園を突っ切って川のほうに向かいながら、バユーンは水に棲むものたちの話をする。水にはたくさんの妖怪がいるらしい。もともとすべての生命のみなもとでもあることを考えれば、水に居着く妖怪が多いのも自然な気がする。なかでも代表的なのは水のぬし、その名もヴォジャノイ(водяной)だ。初級ロシア語でも必ず習う、水(вода)という単語からきている。そう、家に棲むドモヴォイや森に棲むレーシーなんかと同じ、単純な命名のやつだ。「要注意っていうけど、そういう簡単な名前の妖怪って、たいてい生来善良な、憎めない存在が多いんじゃなかったっけ」とつぶやくと、バユーンは「うん、でも、見ててごらん」と言って、ととと、と先を急いだ。
 川辺に出ると水の音はさらに大きくなる。コンクリートで固められた川縁のなかを水がごうごうと走る。昨日の雨もあって増水していて迫力があり、なんだかドスのきいた声みたいだ。私は川を眺め下ろしながら、(こんな水に棲んでいるのなら、家や森のような静かな場所にいる妖怪よりは力が強いんだろうな……)と考える。水の妖怪はどんな水流でも流されたりしないんだろうか。あ、流されたら「河童の川流れ」そのものか。
 春の川沿いを歩くのは気持ちがいい。下流へ向かうとすぐに海に出てしまうので、私たちは上流のほうへ、長めの散歩に出かけることにした。

人を食べる?

 一時間ほど歩くと小高い丘が連なる地帯に入る。バユーンも春風に長い毛並みを揺らしながらついてくる。もちろん、ヴォジャノイの話を続けながらだ。──あるとき農夫が三人、川で水浴びをしようとすると、川のなかから低い声で「そろそろ飯の時間になるが、おまんまはまだかなあ」という声が聞こえた。太陽は真上にあり、ちょうど正午のころあいだ。農夫たちは恐ろしくなってとっさに木の茂みに隠れた。すると遠くから馬の足音が聞こえ、旅人がひとり近づいてきた。馬から降りて、やはり川で水浴びをしようとしている。まさか、あれが川の声が待っている「おまんま」なのか。農夫たちは慌てて茂みから飛びだすと、旅人を呼びとめ、さっき川から聞こえた声の話をして、気をつけるように言った。けれども旅人は道中だいぶ砂埃を浴びてきたので、どうしても体をさっぱりさせたい。そこで、川に入らなければいいだろうと考え、岸辺にあった桶で水を汲んで体にかけた……と、そのとたん、旅人はぱったりと倒れて死に、そのまま川に転げ落ちてしまった。見ていた農夫たちは恐れをなして飛んで帰ったが、家に着くころにはみんな白髪になっていたという……。
 バユーンは話を終えると「ね、怖いでしょ」と得意気にしっぽをたてた。私は「ふうん」と相槌を打って、(じゃあ、水のぬしはそんなに簡単に人間を食べちゃうってことだろうか。おひるごはんはいつも人間なんだろうか)と考える。考えながらふと、相変わらず水たまりを器用に避けて歩いているバユーンを見て「あ」と思い、「ひょっとしてバユーンは自分が水が嫌いだからヴォジャノイのことも嫌いなんじゃ……」と言うと、バユーンは声に出して「ぎく」と言い、すっとぼけた声で「いいところに気がついたね」と答え、少し言葉を探してから、「水っていうのは元来、覗き込んだ者を映しだすものだから。ヴォジャノイも状況によって多種多様に変化する。僕はやっぱり、水は怖いものだと思うんだよね」と続けた。「でも水って怖いだけじゃなくて、気持ちよかったり楽しかったりもすると思うんだけど」と私は食い下がる。柔らかい陽を浴びて光りながら流れる川は、勢いこそあれ、とてもいますぐに人の命を奪おうとしているようには見えない。「そうだねえ……」とバユーンも表情をやや和らげて、「確かに、他愛のないいたずらをする存在としての言い伝えもある。たとえば、溺れた人のふりをして川にぷかぷか浮いていて、見た人がびっくりして助けようと水に入っていくと、急に起きあがってケラケラ笑って水のなかに去っていく、とか」と話す。溺れた人のふりをするなんてあんまり趣味のいいいたずらじゃないけど、それなら、必ずしも人をとって食べようってわけじゃないんだな。まあ、河童も人を川に引きずり込むこともあれば、いたずらをするだけのこともあるっていうから、やっぱり河童に似てるのか。

無理が嫌い

 さらに上流に進むとコンクリートで固められていた土手が消え、木々が増え、空気が冷たくなり、川はささやかな清流となっていく。私は「じゃあ、ヴォジャノイが怖い存在になるかならないかは、運とか、季節とか、あるいはその人のおこないとかによって決まるってことなの?」と訊いてみる。よくある昔話みたいに、善良なおじいさんは川の恵みを受けとれて、いじわるなおじいさんはひどいめにあう、というパターンなのかな。
 バユーンはぴたりと足をとめ、「うーん、だいたいそんな感じではあるけど……」と言いながら頭のなかの民話データを照合するみたいにしばらく上目遣いで宙をながめたあと、「ヴォジャノイにはひとつ、大嫌いなことがある」と言った。「なに、大嫌いなことって」と私が訊くと、バユーンは「無理をさせられること」と答える。え、無理を?
 少し複雑なんだけど、と前置きしてバユーンが話したところによると、ヴォジャノイはほかの妖怪より主体性が弱く、「循環」の性質が強くて、自然の営みの流れに敏感らしい。わかりやすくいうなら、ヴォジャノイが守ろうとしているのは、水分が蒸発して雲になって雨や雪になってまた川に注いで……っていう流れそのもので、人間がそれを感じとって尊重しているあいだは怒らない。しかし水を道具のように使う人間がいると警戒する。だから古くから水車小屋の粉挽き職人はいちばんヴォジャノイに近い存在で、仲良くできるかどうかは粉挽きにとってすごく重要だった。うまくいけば、ヴォジャノイは水車のそばに居ついて一緒に川の流れを見守ってくれる。「ヴォジャノイは、水車小屋の座敷童みたいなものでもあったんだ」とバユーンはまとめた。
 私は川を見下ろし、上流から下流へ、さらにその先へと想像をのばした。この清流も町に戻ればまたコンクリートに囲まれ、海へと出ていく。人は水をせき止め、汲み上げ、流れを曲げ、必要な水を切りとる。現代は、水車小屋とは比べものにならない規模で水を「利用」している。そのどのくらいが「必要」で、どこからが「無理」なのかをあらためて考えてみると……。ふいに、いくつもの公害の歴史が頭に浮かぶ。水はすべてを取り込んでしまう。無理をさせれば、いつかは人に返ってくるのに……。
 せめて取り返しのつかない汚しかたをしないように「循環」に返さなきゃね、と話しながら、私たちは町へ戻る。ごうごうと流れる町なかの川の音は、さっきよりもはっきりと意思を持った、水の声に聞こえた。

奈倉 有里

1982年生。ロシア文学研究者。著書に『夕暮れに夜明けの歌を』『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』『ことばの白地図を歩く』『ロシア文学の教室』『文化の脱走兵』『背表紙の学校』、訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』など。

イラスト 山田 緑
公式HP:http://midoriyamada.net/

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