「台湾で神として祀られている日本人」森川清治郎と杉浦茂峰、二人の英雄の物語
1895年、日清戦争後の下関条約により、台湾は日本の領土となり、1945年までの50年間にわたり統治された。
この時代、日本は台湾で鉄道・上下水道・学校などの近代インフラを整備し、衛生や教育制度の基盤を築いた。
しかしその一方で、同化政策や専売制度、税制改革の実施は、地域や階層によっては住民に少なからぬ負担を強いる結果ともなった。
こうした複雑な歴史を経ても、現在の台湾では日本に対して比較的好意的な感情を抱く人が多い。
とりわけ、統治時代に台湾の発展や住民のために尽力した日本人の一部は、今なお深い敬意をもって語り継がれている。
中には、死後「神」として祀られ、現代の台湾人からも篤く信仰される日本人もいる。
今回は、嘉義県東石郷で「義愛公(ぎあいこう)」と呼ばれる森川清治郎(もりかわ せいじろう)。
台南市安南区で「飛虎将軍(ひこしょうぐん)」として祀られる杉浦茂峰(すぎうら しげみね)。
二人の足跡をたどる。
森川清治郎とは
森川清治郎(もりかわ せいじろう 1861年 – 1902年)は、神奈川県横浜市出身の日本の警察官で、台湾では「義愛公(ぎあいこう)」として現在も祀られている。
1897年、日清戦争終結から2年後、台湾が日本統治下に入ったことを受けて派遣され、嘉義県東石郷副瀬庄(現・副瀬村)の派出所勤務となった。
森川は、任地で住民の生活向上に力を尽くした。
寺子屋を開き、日本から教科書を取り寄せて住民に読み書きを教えたほか、農業技術も指導した。
当時の副瀬周辺はマラリアやコレラの蔓延地帯であったため、森川は排水溝を整備し、衛生教育にも熱心に取り組んだ。
このため、地元の人々から「大人(だいじん)」と慕われるようになったという。
1902年、台湾総督府が新たに漁業税を導入すると、半農半漁で生活していた村の住民は大きな負担を強いられることになった。
森川は村民の窮状を訴え、減免を求めて地方官庁に嘆願したが、「警官でありながら住民を扇動するのか」と叱責され、戒告処分を受ける。
強い無力感に苛まれた森川は、1902年4月7日、朝の巡回を終えた後、火縄銃で自ら命を絶った。
遺書には「苛政擾民(かせいじょうみん)」、すなわち「過酷な政治が民を苦しめる」と、上層部を批判する言葉が記されていた。
森川の死を知った住民たちは深い悲しみに包まれ、その功績と献身を称えるため、嘉義県東石郷副瀬村の富安宮に祀った。
「義愛公」という尊称は、「義理と愛情を兼ね備えた巡査」という意味を込めて名付けられたもので、今も地元の人々に篤く信仰されている。
杉浦茂峰とは
杉浦茂峰(すぎうら しげみね 1923年11月9日 – 1944年10月12日)は、茨城県水戸市出身の日本海軍兵曹長(戦死後、少尉に昇進)で、台南市安南区の「鎮安堂飛虎将軍廟」に祀られている。
地元では「飛虎将軍(ひこしょうぐん)」と呼ばれ、現在も篤い信仰を集める。
1944年10月12日、台湾沖航空戦(台湾空戦)で、杉浦は第201海軍航空隊所属として零式艦上戦闘機三二型に搭乗し、台南上空で米軍F6Fヘルキャット戦闘機と交戦した。
激しい空戦の中で尾翼に被弾し機体は炎上、墜落の危機に陥ったが、杉浦は下に広がる安南区海尾寮の集落を避け、農地や魚塩池のある東側へ機体を誘導したとされる。
機体の爆発を避けるために脱出したものの、降下中に米軍機の機銃掃射を受け、杉浦は戦死した。享年20だった。
戦後、海尾寮周辺では「白い軍服を着た若い日本兵が夢枕に立つ」という逸話が広まり、住民たちは土地の守護神・保生大帝に相談したところ「杉浦茂峰の魂はここに留まりたいと願っている」との託宣を得た。
これを受け、1971年、地元住民が杉浦を祀る小祠を建て、のちに「鎮安堂飛虎将軍廟」として整備された。
現在、廟内には杉浦の神像が三体安置されており、中央に本尊、両脇に分尊(分霊像)が置かれている。
参拝者の希望により、分尊像は家庭に迎えることもできる。
廟では毎朝夕、七本の煙草を焚き、杉浦を偲んで日本国歌「君が代」と海軍行進曲「海行かば」を奉納する儀式が行われている。
廟内には杉浦の写真や略歴、生涯年表、日本語の解説パネルも設置され、参拝者はその功績をたどることができる。
命を懸けて人々を守ろうとし、その功績を称えられた森川清治郎と杉浦茂峰。
いまもそれぞれ「義愛公」と「飛虎将軍」として祀られ、地元住民に篤く敬われている。
二人の存在は、台湾と日本が歩んだ複雑な歴史を伝えると同時に、現在も続く心のつながりを象徴している。
参考 :『鎮安堂飛虎将軍廟公式パンフレット』『義愛公伝』他
文 / 草の実堂編集部